れは十一日の晩の、しかも月の幽《かす》かな夜ふけである。おとよはわが家の裏庭の倉の庇《ひさし》に洗濯をやっている。
こんな夜ふけになぜ洗濯をするかというに、風呂《ふろ》の流し水は何かのわけで、洗い物がよく落ちる、それに新たに湯を沸かす手数と、薪《まき》の倹約とができるので、田舎《いなか》のたまかな家ではよくやる事だ。この夜おとよは下心あって自分から風呂もたててしまいの湯の洗濯にかこつけ、省作を待つのである。
おとよが家の大体をいうと、北を表に県道を前にした屋敷構えである。南の裏庭広く、物置きや板倉が縦《たて》に母屋《おもや》に続いて、短冊形《たんざくがた》に長めな地《じ》なりだ。裏の行きとまりに低い珊瑚樹《さんごじゅ》の生垣《いけがき》、中ほどに形ばかりの枝折戸《しおりど》、枝折戸の外は三尺ばかりの流れに一枚板の小橋を渡して広い田圃《たんぼ》を見晴らすのである。左右の隣家は椎森《しいもり》の中に萱《かや》屋根《やね》が見える。九時過ぎにはもう起きてるものも少なく、まことに静かに穏やかな夜だ、月は隣家の低い森の上に傾いて、倉も物置も庇から上にばかり月の光がさしている。倉の軒に迫って繁《しげ》れる梅の樹《き》も、上半の梢《こずえ》にばかり月の光を受けている。
おとよは今その倉の庇、梅の根もとに洗濯をしている。うっすら明るい梅の下に真白《まっしろ》い顔の女が二つの白い手を動かしつつ、ぽちゃぽちゃ水の音をさせて洗い物をしているのである。盛りを過ぎた梅の花も、かおりは今が盛りらしい。白い手の動くにつれて梅のかおりも漂いを打つかと思われる、よそ目に見るとも胸おどりしそうなこの風情《ふぜい》を、わが恋人のそれと目に留った時、どんな思いするかは、他人の想像しうる限りでない。
おとよはもう待つ人のくる刻限と思うので、しばしば洗濯の手を止めては枝折戸の外へ気を配る。洗濯の音は必ず外まで聞えるはずであるから、省作がそこまでくれば躊躇《ちゅうちょ》するわけはない。忍びよる人の足音をも聞かんと耳を澄ませば、夜はようやく更《ふ》けていよいよ静かだ。
表通りで夜番《よばん》の拍子木《ひょうしぎ》が聞える。隣村《となりむら》らしい犬の遠ぼえも聞える。おとよはもはやほとんど洗濯の手を止め、一応|母屋《おもや》の様子にも心を配った。母屋の方では家その物まで眠っているごとく全くの寝静まりとなっ
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