の中の一切のとどこおりがとれてしまって、胸はちゃんと定《き》まった。胸が定まれば元気はおのずから動く。
 翌朝省作は起こされずに早く起きた。
「おッ母さん仕事着は」
とどなる。
「ウム省作起きたか」
「あ、おッ母さん、もう働くよ」
「ウムどうぞま、そうしてくろや。お前に浮かぬ顔して引っ込んでいられると、おらな寿命が縮まるようだったわ」
 中《なか》しきりの鏡戸《かがみど》に、ずんずん足音響かせてはや仕事着の兄がやってきた。
「ウン起きたか省作、えい加減にして土竜《もぐら》の芸当はやめろい。今日はな、種井《たねい》を浚《さら》うから手伝え。くよくよするない、男らしくもねい」
 兄のことばの終わらぬうちに省作は素足で庭へ飛び降りた。
 彼岸がくれば籾種《もみだね》を種井の池に浸す。種浸す前に必ず種井の水を汲《く》みほして掃除《そうじ》をせねばならぬ。これはほとんどこの地の習慣で、一つの年中行事になってる。二月に入ればよい日を見て種井浚いをやる。その夜は茶飯《ちゃめし》ぐらいこしらえて酒の一升も買うときまってる。
 今日は珍しくおはま満蔵と兄と四人|手揃《てぞろ》いで働いたから、家じゅう愉快に働いた。この晩兄はいつもより酒を過ごしてる。
「省作、今夜はお前も一杯やれい。おらこれでもお前に同情してるど、ウム人間はな、どんな事があっても元気をおとしちゃいけない、なんでも人間の事は元気一つのもんだよ」
「兄《にい》さん、これでわたしだって元気があります」
「アハヽヽヽヽヽそうか、よし一杯つげ」
 省作も今日は例の穏やかな顔に活気がみちてるのだ。二つ三つ兄と杯を交換して、曇りのない笑いを湛《たた》えている。兄は省作の顔を見つめていたが、突然、
「省作、お前はな、おとよさんと一緒になると決心してしまえ」
 省作も兄の口からこの意外な言を聞いて、ちょっと返答に窮した。兄は語を進めて、
「こう言い出すからにゃおれも骨を折るつもりだど、ウン世間がやかましい……そんな事かまうもんか。おッ母さんもおきつも大反対だがな、隣の前が悪いとか、深田に対してはずかしいとかいうが、おれが思うにゃそれは足もとの遠慮というものだ。な、お前がこれから深田よりさらに財産のある所へ養子にいったところで、それだけでお前の仕合せを保証することはできないだろう。よせよせ、婿にゆくなんどいうばかな考えはよせ。はま公、今一
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