があるが、九十九里一帯の地には秋の声はなくてただ春の音がある。
 人の心を穏やかに穏やかにと間断なく打ちなだめているかと思われるは、この九十九里の春の音である。幾千年の昔からこの春の音で打ちなだめられてきた上総《かずさ》下総《しもうさ》の人には、ほとんど沈痛な性質を欠いている。秋の声を知らない人に沈痛な趣味のありようがない。秋の声は知らないでただ春の音ばかり知ってる両総の人の粋は温良の二字によって説明される。
 省作はその温良な青年である。どうしたって省作を憎むのは憎む方が悪いとしか思われぬ。省作は到底春の人である。慚愧《ざんき》不安の境涯《きょうがい》にあってもなお悠々《ゆうゆう》迫らぬ趣がある。省作は泣いても春雨《はるさめ》の曇りであって雪気《ゆきげ》の時雨《しぐれ》ではない。
 いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で大手《おおで》を振って帰ってきた省作も、家に来てみると、家の人たちからはお前がよくないとばかり言われ、世間では意外に自分を冷笑し、自分がよくないから深田を追い出されたように噂《うわさ》をする。いつのまか自分でも妙に失態をやったような気になった。臆病《おくびょう》に慚愧心《ざんきしん》が起こって、世間へ出るのが厭《いや》で堪《たま》らぬ。省作の胸中は失意も憂愁もないのだけれど、周囲からやみ雲にそれがあるように取り扱われて、何となし世間と隔てられてしまった。それでわれ知らず日蔭者《ひかげもの》のように、七、八日奥座敷を出ずにいる。家の人たちも省作の心は判然《はっきり》とはわからないが、もう働いたらよかろうともえ言わないで好きにさしておく。
 この間におはまは小さな胸に苦労をしながら、おとよ方《かた》に往復して二人《ふたり》の消息を取り次いだ。省作は長い長い二回の手紙を読み、切実でそうして明快なおとよが心線に触れたのである。
 萎《しお》れた草花が水を吸い上げて生気を得たごとく、省作は新たなる血潮が全身にみなぎるを覚えて、命が確実になった心持ちがするのである。
「失態も糸瓜《へちま》もない。世間の奴《やつ》らが何と言ったって……二人の幸福は二人で作る、二人の幸福は二人で作る、他人《ひと》の世話にはならない」
 こう独言《ひとりごと》を言いつつ省作は感に堪《た》えなくなって、起《た》って座敷じゅうをうろうろ歩きをするのである。省作はもう腹
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