本持ってこ」
おはまは笑いながら、徳利を持って出た帰りしなに、そっと省作の肩をつねった。
「まあよく考えてみろ、おとよさんは少しぐらいの財産に替えられる女ではないど。そうだ、無論おとよさんの料簡《りょうけん》を聞いてみてからの事だ。今夜はこれで止《や》めておく。とくと考えておけ」
兄は見かけによらず解《わか》った人であった。まだ若年な省作が、世間的に失敗した今の境遇を、兄は深く憐《あわれ》んだのである。省作の精神を大抵推知しながら先を越して弟に元気をつけたのである。省作は腹の中で、しみじみ兄の好意を謝した。省作は今が今まで、これほど解ってる人で、きっぱりとした決断力のある人とは思わなかった。省作はもう嬉《うれ》しくて堪《たま》らない。だれが何と言ってもと心のうちで覚悟を定《き》めていた所へ、兄からわが思いのとおりの事を言われたのだから嬉しいのがあたりまえだ。省作はあらん限りの力を出して平気を装うていたけれど、それでもおはまには妙な笑いをくれられた。省作は昨日の手紙によって今夜九時にはおとよの家の裏までゆく約束があるのである。
三
女の念力などいうこと、昔よりいってる事であるが、そういうことも全くないものとはいわれんようである。
おとよは省作と自分と二人《ふたり》の境遇を、つくづくと考えた上に所詮《しょせん》余儀ないものと諦《あきら》め、省作を手離して深田へ養子にやり、いよいよ別れという時には、省作の手に涙をふりそそいで、
「こうして諦めて別れた以上は、わたしのことは思い棄《す》て、どうぞおつねさんと夫婦仲よく末長く添い遂げてください。わたしは清六の家を去ってから、どういう分別になるか、それはその時に申し上げましょう。ああそうでない、それを申し上げる必要はないでしょう、別れてしまった以上は」
ことばには立派に言って別れたものの、それは神ならぬ人間の本音《ほんね》ではない。余儀ない事情に迫られ、無理に言わせられた表面の口《くち》の端《は》に過ぎないのだ。
おとよは独身《ひとりみ》になって、省作は妻ができた。諦めるとことばには言うても、ことばのとおりに心はならない。ならないのがあたりまえである。浮気の恋ならば知らぬこと、真底《しんそこ》から思いあった間柄が理屈で諦められるはずがない。たやすく諦めるくらいならば恋ではない。
おとよは意志の強い人
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