とを現実に証明している。予はしばらく子どもらをそっちのけにしていたことに気づいた。
「お父さんすぐ九十九里へいこうよう」
「さあお父さんてば早くいこうよう」
予も早く浜に行きたいは子どもらと同じである、姉夫婦もさあさあとしたくをしてくれる。車屋が来たという。二十年他郷に住んだ予には、今は村のだれかれ知った顔も少ない。かくて紅黄の美しいりぼんは村中を横ぎった。
お光さんの夫なる人は聞いたよりも好人物で、予ら親子の浜ずまいは真に愉快である。海気をふくんで何となし肌当たりのよい風がおのずと気分をのびのびさせる。毎夕の対酌に河村君は予に語った。妻に子がなければ妻のやつは心細がって気もみをする、親類のやつらは妾《めかけ》でも置いてみたらという。子のないということはずいぶん厄介ですぜ、しかし私はあきらめている、で罪のない妻に心配させるようなことはけっしてしませんなどいう。予もまた子のあるなしは運命でしかたがない、子のある人は子のあるのを幸福とし、子のない人は子のないを幸福とするのほかないと説《と》いた。お光さんの気もみしてるということは、かげながら心配していたが、それを聞いておおいに安心した由《よし》を告げた。しかしお光さんはやはり気もみをしているのであった。
このごろの朝の潮干《しおひ》は八時過ぎからで日暮れの出汐《でしお》には赤貝の船が帰ってくる。予らは毎朝毎夕浜へ出かける。朝の潮干には蛤《はまぐり》をとり夕浜には貝を拾う。月待草に朝露しとど湿った、浜の芝原《しばはら》を無邪気な子どもを相手に遊んでおれば、人生のことも思う機会がない。
あってみない前の思いほどでなく、お光さんもただ懇切《こんせつ》な身内の人で予も平気なればお光さんも平気であったに、ただ一日お光さんは夫の許しを得て、予らと磯に遊んだ。朝の天気はまんまるな天際の四方に白雲を静めて、洞《ほら》のごとき蒼空はあたかも予ら四人を中心としてこの磯辺をおおうている。単純な景色といわば、九十九里の浜くらい単純な景色はなかろう。山も見えず川も見えずもちろん磯には石ころもない。ただただ大地を両断して、海と陸とに分かち、白波と漁船とが景色を彩《あや》なし、円大な空が上をおおうてるばかりである。磯辺に立って四方を見まわせば、いつでも自分は天地の中心になるのである。予ら四人はいま雲の八重垣《やえがき》の真洞《まほら》の中に蛤
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