紅黄録
伊藤左千夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)成東《なるとう》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)茗荷|茸《だけ》の花が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)薄暗い[#「薄暗い」は底本では「簿暗い」]
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 成東《なるとう》の停車場をおりて、町形をした家並みを出ると、なつかしい故郷の村が目の前に見える。十町ばかり一目に見渡す青田のたんぼの中を、まっすぐに通った県道、その取付きの一構え、わが生家の森の木間から変わりなき家倉の屋根が見えて心も落ちついた。
 秋近き空の色、照りつける三時過ぎの強き日光、すこぶるあついけれども、空気はおのずから澄み渡って、さわやかな風のそよぎがはなはだ心持ちがよい。一台の車にわが子ふたりを乗せ予《よ》は後からついてゆく。妹が大きいから後から見ると、どちらが姉か妹かわからぬ。ふたりはしきりに頭を動かして話をする。姉のは黄色く妹のは紅色のりぼんがまた同じようにひらひらと風になびく。予は後から二児の姿を見つつ、父という感念がいまさらのように、しみじみと身にこたえる。
「お父さんあれ家《うち》だろう。あたいおぼえてるよ」
「あたいだって知ってら、うれしいなァ」
 父の笑顔を見て満足した姉妹はやがてふたたび振り返りつつ、
「お父さん、あら稲の穂が出てるよ。お父さん早い稲だねィ」
「うん早稲《わせ》だからだよ」
「わせってなにお父さん」
「早稲というのは早く穂の出る稲のことです」
「あァちゃんおりてみようか」
「いけないよ、家へ行ってからでも見にこられるからあとにしなさい」
「ふたりで見にきようねィ、あァちゃん」
 姉妹はもとのとおりに二つの頭をそろえて向き直った。もう家《うち》へは二、三丁だ。背の高い珊瑚樹《さんごじゅ》の生垣《いけがき》の外は、桑畑が繁りきって、背戸の木戸口も見えないほどである。西手な畑には、とうもろこしの穂が立ち並びつつ、実《み》がかさなり合ってついている、南瓜《かぼちゃ》の蔓《つる》が畑の外まではい出し、とうもろこしにもはいついて花がさかんに咲いてる。三角形に畝《うね》をなした、十六角豆《ささげ》の手も高く、長い長いさやが千筋に垂れさがっている。家におった昔、何かにつけて遊んだ千菜畑《せんざいばたけ》は、雑然として昔ながらの夏のさまで、何とも
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