きよらかなる、きよらかなる情感を盡して
僕は尖れる帆立貝のやうに
眞晝の扇をうちひらく
大氣よ、色を點ぜよ
あまりにかがやき、あまりに雪白すぎる。
[#地から1字上げ](峨峨温泉にて)

  虹の懸れる幽愁

限りなく、かぎりなく
この眺望を透す爽かな情感に身をふるはせる
うしろから吹き下す西風も眉にしみ
青燦としてうすむ青朝山の角より
夕霽《ゆふばれ》の虹くつきりと吹きあげ
うねうねと白みゆく激流も遠くほのかに
全體は流麗な青い金色の靄とかはり
僕も馬もキラキラと雨の雫を滴らして
今放電的な虹にすき透つて山を下る
限りなく、かぎりなく
この幽幻なる清きわびしさに
耐へられず、たへられず。

  午前中の精神

雪のある、うすあかい原林を
踏みしだき、かきわけ、つき進む僕への
皚皚たる高山の片照りの光線
喜び、喜び、發散する清らかな瀧の花火

雲はめぐり、風は熱い思想を洗ふ
はつらつたる空間の川、幽雅な七千呎の電氣風
僕は朝紅のある、水のひびきのする鳥への感覺をもつて
正午を組みあはす嶽へのぼらうとする
こんなにも僕を涼しく、氣も輕く
高氣壓とともに高みへ導く
おお青青たる午前中の精神よ。

  懷古

カーキいろの山脈の皺に夕映が滴り
空氣いろのつよい反映が加はつて
爽涼たる景觀の線を發してゐるのを見ては
どうして旅行者自身の精神を
鎭靜な香爐のやうに思念せずにはゐられよう
あの寛濶で古雅なひろがり!
未來への探照燈めいたうすら明り
そこに重重しくも老いたる地球の
時間の幕と波濤を重ね、かさね
青黒き深林帶へまで、又は谿の陰影へまで
ほがらかなる夕映から夜の色を塗りかへようとしてゐるのを
こんなにも寂默として見送り、見送り
自身が自然への雲翳として存在しては。
[#地から1字上げ](藏王山にて)

  爽怨

僕のさがす紅石楠の花は見つからない
雪にあをあをとかがやいてゐる嶽の突角にも
ほのかな原林の枝や神經質に白い幹の間にも
又青と闇とが光線の瀧をあびてゐる谿間の崖にも
自然に生えてゐるといふ鮮紅色の花は見つからない
僕はなんとも知れない爽かな怨みにもえる
まるで青青として情のふかい神話の妃が
その頬を染める顏料が見つからずに
うつうつと靜かな狂氣に氣がもつれてゆくやうに
僕はひとり岩の宮殿のならぶ
藏王山の影と陰との深みへ下りる。
[#地から1字上げ](刈田岳にて)

  新麗なる眞晝

すさまじきまでに、清らかなる
岩角や深山木のほとりに
みつしりと濕つて咲盡くせる
雪割草や處女袴の新らしき花蕚を
僕は靜かな恐怖の智慧のやうに身にかんじる
これほど雪と西風に洗はれてゐる嶽の
するどい自然色のうちから
あんなにもひそひそと、うすい煙のやうに
僕の官能に色をつけてうつり映える
あのあまりに愛らしい花冠や花序のつらなりが
ものすごいほど清純で、ひびきもなく
喜びに似てさらにふかい
あたらしい無情の溌溂さを光らしてゐるから。

  感

ふかい大きい夜は水と霧にしめり
燦燦たる私の感覺圖を
星くさい石のつめたい匂ひでいつぱいにする
宿屋中の人人はさながら幽靈のやうに
あちこちと燈火の紅のなかをながれ
もうろうとした白い鳥のやうにも見える
ただ私には水音がしみ入り、しみ入り
霧がもてるうすい自然感は人にすりより
白い皿をはひ、浴衣にふれ
金屬のやうなひびきでものいふ女らを
ちらちらする水と燈の中にうかべて
涙ぐましき宵の冷情を發散せしめる。
[#地から1字上げ](遠刈田温泉にて)

  七日原

日の沒《い》りの陰と雪の嶽から
三十度の傾斜をもつてひろがり
うすら青い、ほの黄色い
虹の出易い、雨を感じやすい
空氣の青藍色をもてる昆蟲が
ぱつとしてはちる雪と雲の日に舞ひ上り
陰りかげりてつひにはほのぼのと
青朝山の影となり帶となり
古雅な六月の月影を展べようとする。

  深き山嶽よりの情

友よ
こんなにも明るい、すき透つた場所
きよらかな未完成な
岩道のうねり曲り、灌木の芽と花のひかり
ここでこそ私は自分の青い情感を
光華印刷のやうに整理しよう
あの巷の本の間にのみ散歩せる神經軌道を
この雪白なる、この幽邃なる、冷情なる
寒氣へまで、餓ゑまで
或は高氣壓に吹き颪される戰ひにまで。

  峨峨温泉展望

青灰色の岩壁の外輪を
あんなにもうねうねと帆走する白雲の塊り
峽中は西風をめぐらした城のやうに
今にも霧をはなち、雨を吹き入れよう
下には阿羅漢の如く浴する赤肌の農人が
物見臺の上にゆつたりと歩みいで
衣をかかへて、遠く陰りゆく日を惜しげに
その青青とした髯を風にすりつけては仰ぐ。

  鹽釜港

今に、いまに燈がともらう
あまりにほのかな櫻と海との
うすうすとした眞晝の風のなかに
漁船の祭りの旗から魚賣の天幕から
太平洋の色やかなる月影がともり、燈がともり
岩と古い家家のある木の間に
老い朽ちる松島の影をはなち、濤をゆるめる
古雅な港がひつそりとして
北部日本の夜の繪を旅人の眉に懸げようと。

  月

はじめてこの藪と水との細路で
あの月影を發見した人は
どんなに深い情怨をおびて
はじめて月の光にうたれた娘たちを恐れたであらう
月はその半顏――片面しか見せもせず
何年も怒りつづけてゐる戀人のやうに
その光りは油も熱も煙もなく
かの女を見るものはおのづから發光して
死の色をした透明な愁ひをあび
それにふれたものはいつの間にか
うす紫の青い世界の者となり
つめたい光線の花束で
空間にしばりからげられてゐる
靜かな自然の女王の屍と
つれ立つて歩くやうになるではないか。

  月

ほんのりした空中の窓よ
あざやかな時間の運轉者が
せつせと月を洗ひ清めてゐるよ
旅行者よ、農夫よ、航海者よ
その頭の中に燈火をつけよ
日光をもたない囚人もぬす人も
いそいで美しい影の松火をともすがよい
月は自然の幽靈であるから
一つの眼のうちにこもつた幽情を
地上へ映しながら光と陰の文字をかくよ
きよらかな、清らかな
寂寥と光明の今宵の晴れた
ほんのりした空中の窓は開いてゐるよ。

  月

半圓形の天のほとりを
點《とも》り、ともり
月が私たちの頭上に
きれいな光線の航路を描くまへに
船長は月の齡を眺めようし
漁夫は月光と汐の時計を感じ
街道の漂流人は自然のランプを點すであらう
さあ、人人よ、月の前に出よう
われわれの日の光は萬人の火であるが
月は精靈を伴とするものの
ひつそりした燈明臺ではないか
月が大きく照りわたる晩ほど涙ぐましく
われわれの町や荒磯は
華やかな影の繪模樣となる時に
船長よ、漁夫よ、漂流人よ
われわれは自らの生涯を空中に高めて
幽かで、清涼なる光線の盃をあげ
われわれの靜かな影を愛さうではないか。

  月

村村の子供ら
みんなして靜かに月の前にたつたとき
小さい田舍の洗ひ場は
月の幻燈會の入口だと思ふがよい
色を帶びてゐる若い月が
太平洋をはなれると
白鷺や千鳥が青い隱れ家を與へられ
漁夫は水と空との
二重の燈明世界へはひつてゆくし
あんなにも清らかに帆裝した
光線の船が此方へやつてくるよ。

  月

月が娘らのやうに
あかるい海邊で化粧してゐるときは
わたしも喜んで感覺の扇をひらかう
しかし思はぬ木の間に月が出たときは
この村村の天然の釣ランプを
しづかに眺めるにとどめよう
田舍の月はひつそりとして
淋しい人は月の祭を好ましく思ひ
古い昔の世界に遊び
幽情をつくして端坐してゐよう
わたしはそこここと歩きながら
頭に幻をもてる人人にのみ
この清らかな光線の帽子をあづけよう。

  鮮かなる月の夕

わたしは外へ出る
昔の人たちがしたやうに
秋の夕の匂やかな靜まりにたへかねて
水に沈める花洋燈のやうな
ほのあかるい戸外から
木木のほとりにつづく田舍路へ、きよらかな竹原へ
幽かな月の色をゆるゆると愛して
透明な精神のシグナルのやうに
水の娘たちをほのかに思ひ
寂びつくした地球上の家家をはなれて
ほんのりした空中へ
氣病みに影つた私自身を靜かに吹かせようと。

  斷想

僕は感じまい、別れてしまつたといふ事を
いつ逢はれるかしれもしないし
だんだん變つてゆくあらゆる美と精神を
もう斷じて感じまい、思ふまい
匂やかな風のまま何の木とも知れないなかに
ひとり身をひそめて非情な水つぽいものとなり
いつもかはらぬ色やかな村村の春を感じて
決して街のありさまも
あのうす青い思ひのついてゐる神祕な生のいろを
感じまい、思ふまい。

  二つの繪

青藍色の朝となつたではないか
もう私はこの清洒な庭の菖蒲の中から
昆蟲のやうにぬけ出て行かうよ
艶やかだつた夜の繪は
ほんのりおまへの額に消えかかり
うすい涙のいろをもつた陰影が
ものうい晝の月影を映してゐるではないか
別れよう、別れよう
私はこれから又片田舍へ行つて
もう一つの冷たい戀人のやうな
あの寂寞や幽情を訪れようから。

  さやかなる日影

遠くはなれて起き伏しする日は
ちかく在る日にましてさやかなる情趣をかんじ
ほんのりもゆる柚の花の木陰など歩みては
美しかりし夜を思ひ、香氣ある風に濕り
晝の月影の空氣に吹かれちるを眺めつ
ほの青き金色とうす闇にもゆる葉かげの
午後のさびしき椅子を引きよせて
うつとりとした情愛をかすかに清め
六月の庭の影をひとりたのしみながら
何にもまして夏の風をいつぱいにつけて
海からでも來たやうな色どりを引き
夕暮いろの感情にぬれて來る人を
ただあてもなく待つてゐる。

  情怨

たとへば青紫いろの朝霧が
水にうつり、思想に照り
このぐるり[#「ぐるり」に傍点]の景觀をうつすりと
おまへの感じに生かしたやうな
清艶なわびしさを
どんなに私は身に沁ませて
ささやかな一人ぼつちの影をたわめ
枝深い濕つた紫陽花の花に
つめたい精神をあたへては心をこきまぜ
遠いあの朝の目覺めを感じてゐるであらう。

  華麗な哀愁

ちつとも、清らかでも、純粹でもない
田舍の藪のなかを喜んで歩く戀人よ
狐の葉ぼたんや道端の晝がほが
青艶で、水水してゐて、たまらなく簡素なのに
色の絹と金屬をまきつけて、白粉の光らない
華麗で、ほの青い、そして黄色がかつた戀人よ
あまりに自然色のまま、日影もあらはに
どうしても暗く、悲しく、見れば氣も醒めて
美しいと思つた時を怨むやうな
ただ今日の散歩の後の追憶のみをたのしみに
奇異なほこりと刺激をこきまぜて
私はゆたり、ゆたりとお伴をしよう。

  清婉

影をふかめ、ふかめ、
颯としたうす青い闇で
こんなにも幽かな色艶をした空氣が
ひつそりとつめたく流れてゐるだらう
杉から出て、竹の中へくると
又こまやかで、いつそうさやかな晝ではないか
どこかに雪いろさへあるだらう
その顏が淡紅色をよび戻したではないか
しかしかうして見ると、又
その藍と銀と黒づくめのほつそりした姿が
妙に竹の匂ひがするやうな
むしろ竹よりも朽ちる百合の匂ひがして
一瞬間だけは
清凄といつたやうな風が吹くやうに思へるよ。

  女の幼き息子に

幼き息子よ
その清らかな眼つきの水平線に
私はいつも眞白な帆のやうに現はれよう
おまへのための南風のやうな若い母を
どんなに私が愛すればとて
その小さい視神經を明るくして
六月の山脈を見るやうに
はればれとこの私を感じておくれ
私はおまへの生の燈臺である母とならんで
おまへのまつ毛にもつとも樂しい灯をつけてあげられるやうに
私の心靈を海へ放つて清めて來ようから。

  燦爛たる若者

海の扇よ、吹けよ、鳴れよ
こんなにもあかるく、氣高く
ロマンチックな、ロマンチックな
あざやかな燈臺の新夜の色をもつて
つよい檣のやうに僕を煽いでくれたおまへに
今沛然たる大氣と清らかな風との
放電的な濤の聲をもつてふれよう、ふれよう
こんなにも高い防波壁の上で
川から來た若い白鷺のやうに
七月の北風をあびせ、あびせ
星が光環をつくるやうに發情するおまへを
僕は航海家の貪慾をかがやかして
船乘りがもつ愛情を理解して貰ひ
或は僕の生涯をあきらかに
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