よ。いま消し炭を持ってくるから」
 母は麻糸をかたよせてたとうとした。
「おや」
 母は立てなかった。
「おや」
 母はふたたびいって立とうとしたが顔がさっと青くなって後ろに倒れた。
「お母《かあ》さん」
 千三はだき起こそうとした。母の目は上の方へつった。
「お母さん」
 声におどろいて伯父夫婦が起きてきた。千三は早速手塚医師のもとへかけつけた。元来かれは手塚のもとへいくのを好まなかった、しかし火急の場合、他へ走ることもできなかった。
 粉雪まじりの師走《しわす》の風が電線にうなっていた、町はもう寝しずまって、風呂屋から流れてくる下水の湯気がどぶ板のすきまから、もやもやといてついた地面をはっていた。
「今晩は……今晩は……」
 千三は手塚の門をたたいた。
 音がない。
「今晩は!」
 かれは声をかぎりに呼《よ》び力をかぎりにたたいた。奥にはまだ人の声がする。
「どうしたんだろう」
 千三は手塚なる医者が金持ちには幇間《ほうかん》のごとくちやほやするが、貧乏人にはきわめて冷淡だという人のうわさを思いだした、それと同時にこの深夜に来診を請うと、ずいぶん少なからぬお礼をださねばなるまいが、
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