…お父さん」
 ごぶごぶごぶと湯のたぎるような音が、そこここに聞こえた。それはいすの綿や、毛類や、蒲団《ふとん》などが燃ゆる音であった。そうしてそのあいだにガチンガチンというガラスの割れる音が聞こえた。
「巌! 巌!」
 父は声をかぎりに叫んだ。答えがない。
「巌! 巌!」
 やっぱり答えがない。
 猛太は仰天《ぎょうてん》した、かれはふたたび火中に飛びこんだ、もう火の手は床《ゆか》一面にひろがった、右を見ても左を見ても火の波がおどっている。天井《てんじょう》には火竜の舌が輝きだした。
「巌!」
 猛太の胸ははりさけるばかりである、かれはもう凶悪《きょうあく》な三百代言でもなければ、不正な政党屋でもない、かれのあらゆる血はわが子を救おうとする一心に燃えたった。
 かれは煙に巻かれて窒息《ちっそく》している巌の体に足をふれた、かれは狂気のごとくそれを肩にかけた、そうしてきっと窓の方を見やった。がかれは爛々《らんらん》たる炎《ほのお》の鏡に射られて目がくらんだ、五色の虹霓《こうげい》がかっと脳を刺したかと思うとその光の中に画然《かくぜん》とひとりの男の顔があらわれた。
「やあ覚平!」
 か
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