たかも人をもて塀《へい》を築きたらんが如く、その雑沓《ざっとう》名状《めいじょう》すべくもあらず。聞く大阪市民は由来《ゆらい》政治の何物たるを解せざりしに、この事件ありてより、漸《ようや》く政治思想を開発するに至れりとか、また以て妾《しょう》らの公判が如何《いか》に市民の耳目《じもく》を動かしたるかを知るに足るべし。

 二 公廷の椿事《ちんじ》

 明治十八年十二月頃には、嫌疑者それよりそれと増し加わりて、総数二百名との事なりしが、多くは予審の笊《ざる》の目に漉《こ》し去られて、公判開廷の当時残る被告は六十三名となりたり。されどなお近来|未曾有《みぞう》の大獄《たいごく》にて、一度に総数を入るる法廷なければ、仮に六十三名を九組《ここのくみ》に分ちて各組に三名ずつの弁護士を附し、さていよいよ廷は開かれぬ。先ず公訴状朗読の事ありしに、「これより先、磯山清兵衛《いそやませいべえ》は(中略)重井《おもい》、葉石《はいし》らの冷淡なる、共に事をなすに足る者に非《あら》ず」云々《うんねん》の所に至るや第三列に控えたる被告人|氏家直国《うじいえなおくに》氏は、憤然として怒気満面に潮《ちょう》し、肩を聳《そび》やかして、挙動穏やかならずと見えしが、果して十五ページ上段七行目の「右議決の旨《むね》を長崎滞在の先発者|田代季吉《たしろすえきち》云々」の処に至り、突然第一列にある、磯山清兵衛氏に飛びかかり、一喝《いっかつ》して首筋を掴《つか》みたる様子にて、場《じょう》の内外|一方《ひとかた》ならず騒擾《そうじょう》し、表門警護の看守巡査は、いずれも抜剣《ばっけん》にて非常を戒《いまし》めしほどなりき。とかくする内|看守《かんしゅ》、押丁《おうてい》ら打ち寄りて、漸く氏家を磯山より引き離したり。この時氏家は何か申し立てんとせしも、裁判長は看守押丁らに命じて、氏家を退廷せしめ、裁判長もまたこの事柄につき、相談すべき事ありとて一先《ひとま》ず廷を閉じ、午後に至りて更に開廷せり。爾来《じらい》公判は引き続きて開かれしかど、最初の日の如く六十三名打ち揃《そろ》いたる事はなく、大抵一組とこれに添いたる看守とのみ出廷したり。しかもなお傍聴者は毎日午前三時頃より正門に詰めかけ、三、四日も通い来りて漸く傍聴席に入る事を得たる有様にて、われわれの通路は常に人の山を築けるなりき。

 三 重井の情書

 かかる中にも葉石は、時々看守の目を偸《ぬす》みて、紙盤《しばん》にその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるを詰《なじ》るを例とせり。([#ここから割り注]紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられこれに意志を認めて公判廷に持参しかくて弁論の材料となせるなり[#ここで割り注終わり])さりながら妾は長崎にて決心せし以来再び同志の言を信ぜず、御身《おんみ》は愛を二、三にも四、五にもする偽君子《ぎくんし》なり、ここに如何《いかん》ぞ純潔の愛を玩《もてあそ》ばしめんやと、いつも冷淡に回答しやりたりき。意外なりしは重井より心情を籠《こ》めし書状を送り来りし事なり。東京在住中、妾《しょう》は数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》その邸《てい》に行きて、富井女史救い出しの件につき、旅費補助の事まで頼みし事ありしが、当時氏は女のさし出がましきを厭《いと》い将《は》た妾らが国事に奔走するを忌《い》むの風《ふう》ありしに、思いきや今その真心に妾を思うこと切《せつ》なるよしを言い越されんとは。妾は更に合点《がてん》行かず、ただ女珍しの好奇心に出でたるものと大方に見過して、いつも返事をなさざりしに、終《つい》には挙動にまで、その思いの表われて、如何《いか》にも怪《あや》しう思わるるに、かくまでの心入れを、如何《いか》でこのままにやはあるべきと、聊《いささ》か慰藉《いしゃ》の文を草して答えけるに、爾来《じらい》両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石に懲《こ》りし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。これぞ実《げ》に妾が半生を不幸不運の淵《ふち》に沈めたる導火線なりけると、今より思えばただ恐ろしく口惜しかれど、その当時は素《もと》よりかかる成行《なりゆ》きを予知すべくもあらず、一向《ひたぶる》に名声|赫々《かくかく》の豪傑を良人《おっと》に持ちし思いにて、その以後は毎日公判廷に出《い》づるを楽しみ、かの人を待ち焦《こが》れしぞかつは怪しき。かくて妾は宛然《さながら》甘酒に酔いたる如くに興奮し、結ばれがちの精神も引き立ちて、互いに尊敬の念も起り、時には氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1−86−48]《いんうん》たる口気《こうき》に接して自《おの》ずから野鄙《やひ》の情も失《う》せ、心ざま俄《にわか》に高く品性も勝《すぐ》れたるよう覚えつつ、公判も楽しき夢の間《ま》に閉じられ、妾は一年有余の軽禁錮《けいきんこ》を申し渡されたり。重井、葉石らの重《おも》だちたる人々は、有期流刑とか無期とかの重罪なりければ、いずれも上告の申し立てをなしたれども、妾のみは既決に編入せられつ。なお同志の人々と同じ大阪にあるを頼みにて、時にはかの人の消息を聞く事もあらんなど、それをのみ楽しみに思いしに、やがて三重県津市に転監せらるると聞きし時の失望は、木より落ちたる猿《ましら》のそれにも似たらんかし。
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  第七 就役


 一 典獄の訓誨《くんかい》

 伊勢へは我々一年半の刑を受けし人のみにて、十数人の同行者あり。常ならば東海道の五十三|駅《つき》詩にもなるべき景色ならんに、柿色の筒袖《つつそで》に腰縄さえ付きて、巡査に護送せらるる身は、われながら興さめて、駄句《だく》だに出《い》でず、剰《あまつさ》え大阪より附き添い来りし巡査は皆|草津《くさつ》にて交代となりければ、切《せ》めてもの顔|馴染《なじみ》もなくなりて、憂《う》きが中に三重県津市の監獄に着く。到着せしは黄昏《こうこん》の頃なりしが、典獄は兼《か》ねて報知に接し居たりと見え、特に出勤して、一同を控所に呼び集め、今も忘れやらざる大声にて、「拙者は当典獄|平松宜棟《ひらまつぎとう》である、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に伝逓《でんてい》に相成りたる被告人らである、当典獄の配下の許《もと》に来りし上は申すまでもなく能《よ》く獄則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはその方《ほう》らの身分職業姓名を申し立てよ」と、一同をして名乗らしめ、さて妾《しょう》の番になりし時、「お前はいわんでも分る、景山英《かげやまひで》であろう、妙齢の身にしてかかる大事を企て、今|拙者《せっしゃ》の前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう、アア今頃は何処《どこ》にどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前の事を心配しているに相違ない、お前も親を思わぬではなかろう、一朝《いっちょう》国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ」と同情の涙を籠《こ》めての訓誨《くんかい》に、悲哀の念急に迫りて、同志の手前これまで堪《こら》えに堪え来りたる望郷の涙は、宛然《さながら》に堰《せき》を破りたらんが如く、われながら暫《しば》しは顔も得上げざりき。典獄は沈思《ちんし》してそうあろうそうあろう、察し申す、ただこの上は獄則を謹守し、なお無頼《ぶらい》の女囚を改化遷善の道に赴《おもむ》かしむるよう導き教え、同胞の暗愚を訓誨し、御身《おんみ》が素志《そし》たる忠君愛国の実を挙げ給え、仮令《たとい》刑期は一年半たりとも減刑の恩典なきにしもあらねば一日も早く出獄すべき方法を講じ、父母の膝下《しっか》にありて孝を尽せかしなど、その後も巡回の折々種々に劬《いたわ》りくれられたれば、遂《つい》には身の軽禁銅たることをも忘れて、ひたすら他の女囚の善導に力を致しぬ。

 二 女監の工役

 朝も五時に起きて仕度《したく》をなし、女監取締りの監房を開きに来るごとに、他の者と共に静坐して礼義を施し、次いで井戸端《いどばた》に至りて順次顔を洗い、終りて役場《えきじょう》にて食事をなし、それよりいよいよその日の役《えき》につきて、あるいは赤き着物を縫《ぬ》い、あるいは機《はた》を織り糸を紡《つむ》ぐ。先ず着物の定役《ていえき》を記《しる》さんに赤き筒袖の着物は単衣《ひとえもの》ならば三枚、袷《あわせ》ならば二枚、綿入れならば一枚半、また股引《ももひき》は四足《しそく》縫い上ぐるを定めとし、古き直し物も修繕の大小によりて予《あらかじ》め定数あり、女監取締り一々これを割り渡すなり。妾《しょう》は固《もと》より定役なき身の仮令《たとい》終日|書《しょ》を伴《とも》とすればとて、敢《あ》えて拒む者はあらざるも、せめては、婦女の職分をも尽して、世間の誤謬《ごびゅう》を解《と》かん者と、進んで定役ある女囚と伍し、毎日定役とせる物を仕上げてさて二時間位は罷役《ひえき》より前にわが監房に帰り、読書をなすを例とせり。されば妾出獄の時は相応の工賃を払い渡され、小遣い余りの分のみにてもなお十円以上に上《のぼ》りぬ。これは重禁銅《じゅうきんこ》の者は、官に七分を収めて三分を自分の所有とするが例なるに、妾はこれに反して三分を官に収め七分を自分の有《ゆう》となしければ、在監もし長からんには相応の貯蓄も出来て、出獄の上はひとかどの用に立ちしならん。

 三 藤堂《とうどう》家の老女 

 妾の幸福《さいわい》は、何処《どこ》の獄にありても必ず両三人の同情者を得て陰《いん》に陽《よう》に庇護《ひご》せられしことなり。中にも青木女監取締りの如きは妾の倦労《けんろう》を気遣いて毎度菓子を紙に包みて持ち来り、妾の独《ひと》り読書に耽《ふけ》るをいと羨《うらや》ましげに見惚《みと》れ居たりき。されば妾もこの人をば母とも思いて万事|隔《へだ》てなく交わりければ、出獄の後《のち》も忘るる能《あた》わず、同女が藤堂《とうどう》伯爵邸《はくしゃくてい》の老女となりて、東京に来りし時、妾は直ちに訪れて旧時を語り合い、何とか報恩の道もがなと、千々《ちぢ》に心を砕《くだ》きし後《のち》、同女の次女を養い取りて聊《いささ》か学芸を授《さず》けやりぬ。

 四 少女

 妾《しょう》の在監中、十六歳と十八歳の二少女ありけり、年下なるはお花、年上なるはお菊《きく》と呼べり。この二人《ににん》を特《こと》に典獄より預けられて、読み書き算盤《そろばん》の技は更なり、人の道ということをも、説き聞かせて、及ぶ限りの世話をなすほどに、頓《やが》て両女がここに来れる仔細《しさい》を知りぬ。お花は心の様《さま》さして悪しからず、ただ貧しき家に生れて、一年《ひととせ》村の祭礼の折とかや、兄弟多くして晴衣《はれぎ》の用意なく、遊び友達の良き着物着るを見るにつけても、わが纏《まと》える襤褸《つづれ》の恨《うら》めしく、少女心《おとめごころ》の浅墓《あさはか》にも、近所の家に掛《か》けありし着物を盗みたるなりとぞ。またお菊は幼少の時|孤児《みなしご》となり叔父《おじ》の家に養われたりしが、生れ付きか、あるいは虐遇せられし結果にや、しばしば邪《よこしま》の径《みち》に走りて、既に七回も監獄に来り、出獄の日ただ一日を青天の下《もと》に暮せし事もありしよし。打ち見たる処、両女とも、十人|並《なみ》の容貌を具えたるにいとど可憫《ふびん》[#「可憫《ふびん》」はママ]の加わりて、如何《いか》で無事出獄の日には、わが郷里の家に養い取りて、一身《いっしん》の方向を授けやらばやと、両女を左右に置きて、同じく読書習字を教え、露些《つゆいささ》かも偏頗《へんぱ》なく扱いやりしに、両女もいつか妾に懐《なつ》きて、互いに競うて妾を劬《いた》わり、あるいは肩を揉《も》み脚を按《さす》り、あるいは妾の嗜《たしな》む物をば、己《おの》れの欲を節して妾に侑《すす》むるなど、いじらしきほどの親切に、かかる美徳を備えながら、何故《なにゆえ》盗みの罪は犯したりしぞと
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