、いとど深き哀れを催し、彼らにしてもし妾より先に自由の身とならば、妾の出獄を当署にて聞き合せ、必ず迎えに来るようにと言い含め置きたりしも、両女は終《つい》に来らざりき。妾出獄の後《のち》監獄より聞きし所によれば、両女ともその後再び来らず、お花は当市近在の者にて、出獄後間もなく名古屋へ娼妓《しょうぎ》に売られたり、またお菊《きく》は叔父《おじ》の家にも来らず、その所在を知るに由《よし》なしとの事なりき。ともかくも妾の到る処|何処《いずこ》の監獄にてもかかる事の起りしは、知らず如何《いか》なる因縁《いんねん》にや。あるいはこの不自由なる小天地に長く跼蹐《きょくせき》せる反響として、かく人心の一致集注を見るならんも、その集中点の必ず妾に存せるは、妾に一種の魔力あるがためならずや。もし果してさるものありとせば、好《よ》しこの身自由となりし時、所有《あらゆる》不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷《いちる》の光明を授けんこと、強《あなが》ちに難《かた》からざるべしとは、当時の妾が感想なりき。

 五 看守の無学無識

 当市の監獄には、大阪のそれと異《こと》なりて、女囚中無学無識の者多く、女監取締りの如きも大概は看守の寡婦《かふ》などが糊口《ここう》の勤めとなせるなりき。されば何事も自己の愛憎《あいぞう》に走りて囚徒《しゅうと》を取り扱うの道を知らず。偏《ひとえ》に定役《ていえき》の多寡《たか》を以て賞罰の目安《めやす》となせし風《ふう》なれば、囚徒は何日《いつ》まで入獄せしとて改化|遷善《せんぜん》の道に赴《おもむ》かんこと思いもよらず、悪しき者は益※[#二の字点、1−2−22]悪に陥りて、専心取締りの甘心《かんしん》を迎え、漸《ようや》く狡獪《こうかい》陰険の風を助長するのみ。故《ゆえ》に監獄の改良を計らんとせば、相当の給料を仕払いて、品性高き人物をば、女監取締りとなすに勉《つと》むべし。もしなおかかる者をして囚徒を取り締らしめんには、囚徒は常に軽蔑を以て取締りを迎え、表《おもて》に謹慎を表して陰《いん》に舌を吐かんとす、これをしも、改化遷善を勧諭する良法となすべきやは。独《ひと》り青木氏の如きは、天性慈善の心に富《とみ》たるにや、別に学識ありとも見えざりしにかかわらず、かかる悲惨の境涯を見るに忍びずして、常に早くこの職を退《しりぞ》きたしと語りたりしが妾の出獄後、果して間もなく辞職して、藤堂《とうどう》氏の老女となりぬ。今なお健在なりや否や。

 六 憲法発布と大赦《たいしゃ》

 それはさて置き妾《しょう》は苦役一年にして賞標《しょうひょう》四個《しこ》を与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典あらんとせる、ある日の事、小塚義太郎《こづかぎたろう》氏大阪より来りて面会を求めらる。大阪よりと聞きて、かつは喜びかつは動悸《とき》めきながら、看守に伴われて面接所に行き見れば、小塚氏は微笑を以て妾を迎え、久々《ひさびさ》の疎音《そいん》を謝して、さていうよう、自分は今回有志者の依頼を受けて、入獄者一同を見廻りおり、今度の紀元節を以て、憲法を発布あらせらるべき詔勅《しょうちょく》下り、かつ辱《かたじけな》くも入獄者一同に恩典……といいかけしに、看守は遮《さえぎ》りてその筋よりいまだ何らの達《たっし》なし、めったな事を言うべからずと注意したり。小塚氏はなお語を継ぎて、貴女《あなた》は何にも御存知なき様子、しかし早晩御通知あらん、いずれ明日《みょうにち》にも面会に出頭せん、衣類等は如何《いか》になりおるや、早速にも間に合うよう相成りおるや否やなど、種々厚き注意をなして、その日はそのまま引き取りたり。妾は寝耳に水の感にて、何か今明日《こんみょうにち》に喜ばしき御沙汰《ごさた》あるに相違なし、とにかくその用意をなし置かんと、髪を梳《くしけず》り置きしに、果して夕刻書物など持ちて典獄の処に出《い》で来るようにと看守の命あり。さてこそと天にも昇る心地《ここち》にて、控所に伴われ行きしに、典獄署長ら居並《いなら》びて、謹《つつし》んで大赦文《たいしゃぶん》を読み聞かされたり。なお典獄は威儀|厳《おごそ》かに、御身《おんみ》の罪は大赦令によりて全く消除せられたれば、今日より自由の身たるべし。今後は益※[#二の字点、1−2−22]国家のために励《はげ》まれよとの訓言あり。聞くや否や奇怪の感はふと妾の胸に浮び出でぬ。昨日までも今日までも、国賊として使役《しえき》せられたる身の、一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生|幻《まぼろし》の如しとは、そもや誰《た》がいいそめけんと一時《いちじ》はただ茫然《ぼうぜん》たりしが、小塚氏の厚き注意にて、衣類も新調せられたるを着換え、同志六名と共に三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅館に着きぬ。
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    第八 出獄


 一 令嬢の手前

 旅館には既にそれぞれの用意ありし事とて、実に涙がこぼれるほどの待遇なり。夜《よ》はまた当地有志者の慰労会ありとて、その地の有名なる料理亭に招待せられ、翌日は釜《かま》をかけるとてある人より特に招かれたれば、午後より其処《そこ》に至りしに、令嬢の手前にて、薄茶《うすちゃ》のもてなしあり。更に自分にも一服との所望《しょもう》ありしかば、妾《しょう》は覚束《おぼつか》なき平手《ひらて》まえを立ておわりぬ。貧家《ひんか》にこそ生い立ちたれ、母上の慈悲にて、聊《いささ》かながらかかる業《わざ》をも習い覚えしなりき。さなくば面目を失わんになど、今更の如く親の恩を思えるもおかし。爾来《じらい》かかる事に思わぬ日を経て、遂《つい》に同地の有志者|長井氏克《ながいうじかつ》氏らに送られつつ、鈴鹿峠《すずかとうげ》に至り、それより徒歩あるいは汽車にて大阪に出《い》づるの途中、植木枝盛《うえきえもり》氏の出迎えあり、妾に美しき薔薇花《ばら》の花束を贈らる、一同へもそれぞれの贈り物あり。

 二 大阪の大歓迎

 大阪梅田|停車場《ステーション》に着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同志の無事出獄を祝して万歳の声天地も震《ふる》うばかりなり。停車場《ステーション》に着くや否や、諸有志のわれも花束を贈らんとて互いに先を争う中に、なつかしや、七年前別れ参らせし父上が、病後衰弱の身をも厭《いと》わせられず、親類の者に扶《たす》けられつつ、ここに来り居まさんとは。オオ父上かと、人前をも恥じず涙に濡《し》める声を振り絞《しぼ》りしに、皆々さこそあらめとて、これも同情の涙に咽《むせ》ばれぬ。かくてあるべきならねば、同志の士に伴われ、父上と手を別《わか》ちて用意の整えるある場所に至り、更に志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎すとか、種々の文字を記せる紅白の大旗《たいき》に護られ、大阪市中を腕車《わんしゃ》に乗りて引き廻されけるに、当地まで迎えに来りし父上は、妾の無事出獄の喜びと、当地市民の狂するばかりなる歓迎の有様を目撃したる無限の感とに打たれ、今日までの心配もこれにて全く忘れたり、このまま死すも残り惜しき事なし、かくまで諸氏の厚遇に預かり、市民に款待《かんたい》せられんことは、思い設けぬ所なりしといいつつも、故|中江兆民《なかえちょうみん》先生、栗原亮一《くりはらりょういち》氏らの厚遇を受け給いぬ。夜に入りて旅館に帰り、ようよう一息《ひといき》入れんとせしに、来訪者引きも切らず、拠《よんどころ》なく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさ目も廻らんばかりなり。翌日は、重井《おもい》、葉石《はいし》、古井《ふるい》らの諸氏が名古屋より到着のはずなりければ、さきに着阪《ちゃくはん》せる同志と共に停車場《ステーション》まで出迎えしに、間もなく到着して妾らより贈れる花束を受け、それより徒歩して東雲《しののめ》新聞社に至らんとせるに、数万《すまん》の見物人および出迎人にて、さしもに広き梅田|停車場《ステーション》もほとんど立錐《りっすい》の地を余さず、妾らも重井、葉石らと共に一団となりて人々に擁《よう》せられ、足も地に着かずして中天にぶらさがりながら、辛《かろ》うじて東雲《しののめ》新聞社に入る。新聞社の前にも見物人山の如くなれば、戸を閉じて所要ある人のみを通す事としたるに、門外には重井万歳出獄者万歳の声引きも切らず、花火は上る剣舞は始まる、中江先生は今日は女尊男卑なり、君をば満緑《まんりょく》叢中《そうちゅう》紅一点《こういってん》ともいいつべく、男子に交りての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして卓子《テーブル》の上に座せしめ、其処《そこ》にて種々の饗応《きょうおう》あり。終りて各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》旅宿に帰りしは早や黄昏《たそがれ》の頃なりけり。
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  第九 重井との関係


 一 結婚を諾《だく》す

 それより重井、葉石、古井の諸氏は松卯《まつう》、妾《しょう》は原平《はらへい》に宿泊し、その他の諸氏も各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》旅宿を定め、数日間は此処《ここ》の招待、彼処《かしこ》の宴会と日夜を分たざりしが、郷里の歓迎上都合もある事とて、それぞれ好《よ》きほどにて引き別るることとなり、妾も弥※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》明日岡山へ向け出立というその夜なりき、重井より、是非相談あれば松卯に来りくれよと申し来りぬ。何事かと行きて見れば、重井も葉石もあらず、詮方《せんかた》なく帰宿せんとする折しも、重井|独《ひと》り帰りて、妾の訪れしを喜び、さて入獄以来の厚情は得《え》も忘られず、今回互いに無事出獄せるこそ幸いなれ、ここに決心して結婚の約を履《ふ》まんという。こは予《かね》てよりの覚悟なりけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに、両三日来|中江《なかえ》先生、栗原亮一《くりはらりょういち》氏ら頻《しき》りにわれに説きて、汝《おんみ》と葉石《はいし》と結婚せしむべきことを勧められぬ、依っていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべしと答えおきたりとあり。妾がこれを聞きたる時の驚きは、青天《せいてん》の霹靂《へきれき》にも喩《たと》うべくや、所詮《しょせん》は中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、一図《いちず》に妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。さあれ覆水《ふくすい》争《いか》でか盆に復《か》えるべき、父上にはいずれ帰国の上、申し上ぐることあるべしと答え置き、それより中江、栗原両氏に会いて事情を具し、妾《しょう》にその意なきことを謝《ことわ》りしかば、両氏も始めて己《おの》れらの誤解なることを覚《さと》り、その後さることは再び口にせざるに至りき。かくて妾の決心は堅かりしかど、さすがに幼馴染《おさななじみ》の葉石の、今は昔互いに睦《むつ》み親しみつつ旦暮《あけくれ》訪《と》いつ訪われつ教えを受けし事さえ多かりしを懐《おも》い、また今の葉石とて妾に対して露《つゆ》悪意のあるに非《あら》ざるを察しやりては、この際重井と結婚を約するは情において忍びざる所なきに非ず、情緒《じょうちょ》乱れて糸の如しといいけん、妾もそれの、思い定めがたくて、いずれ帰国の上父母とも相談してと答えけるに、素《もと》より葉石との関係を知れる彼は、容易に諾《うべな》わず、もし葉石と共に帰国せば、他の斡旋《あっせん》に余儀なくせられて、強《し》いて握手することともならんずらん、今の時を失いてはとて、なお妾を催《うなが》して止《や》まず、遂《つい》に軽率とは思いながらに、ともかくも承知の旨を答えたりしぞ妾が終生の誤りなりける。

 二 一家の出迎い

 それより葉石および親戚の者五、六名と共に船にて帰郷の途《と》につきしが、頓《やが》て三番港《さんばんみなと》に到着するや、某地の有志家わが学校の生徒およびその父兄ら約数百名の出迎いありて、雑沓《ざっとう》言わん方《かた》もなく、上陸して船宿《ふなやど》に抵《いた》れば、其処《そこ
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