妾の半生涯
福田英子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)戒《いまし》め
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昔|懐《なつ》かしの
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)弥※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》
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はしがき
昔はベンジャミン・フランクリン、自序伝をものして、その子孫の戒《いまし》めとなせり。操行に高潔にして、業務に勤勉なるこの人の如きは、真《まこと》に尊き亀鑑《きかん》を後世に遺《のこ》せしものとこそ言うべけれ。妾《しょう》の如き、如何《いか》に心の驕《おご》れることありとも、いかで得て企《くわだ》つべしと言わんや。
世に罪深き人を問わば、妾は実にその随一ならん、世に愚鈍《おろか》なる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢《よわい》人生の六分《ろくぶ》に達し、今にして過ぎ来《こ》し方《かた》を顧《かえり》みれば、行いし事として罪悪ならぬはなく、謀慮《おもんばか》りし事として誤謬《ごびゅう》ならぬはなきぞかし。羞悪《しゅうお》懺悔《ざんげ》、次ぐに苦悶《くもん》懊悩《おうのう》を以《もっ》てす、妾《しょう》が、回顧を充《み》たすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみ也《なり》。
懺悔の苦悶、これを愈《いや》すの道はただ己《おの》れを改むるより他《た》にはあらじ。されど如何《いか》にしてかその己れを改むべきか、これ将《は》た一《いつ》の苦悶なり。苦悶の上の苦悶なり、苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上また苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎《あやにく》に他の苦悶来り、妾《しょう》や今実に苦悶の合囲《ごうい》の内にあるなり。されば、この書を著《あらわ》すは、素《もと》よりこの苦悶を忘れんとての業《わざ》には非《あら》ず、否《いな》筆を執《と》るその事もなかなか苦悶の種《たね》たるなり、一字は一字より、一行は一行より、苦悶は弥※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》勝《まさ》るのみ。
苦悶《くもん》はいよいよ勝るのみ、されど、妾《しょう》強《あなが》ちにこれを忘れんことを願わず、否《いな》昔|懐《なつ》かしの想いは、その一字に一行に苦悩と共に弥増《いやま》すなり。懐かしや、わが苦悶の回顧。
顧《おも》えば女性の身の自《みずか》ら揣《はか》らず、年|少《わか》くして民権自由の声に狂《きょう》し、行途《こうと》の蹉跌《さてつ》再三再四、漸《ようや》く後《のち》の半生《はんせい》を家庭に托《たく》するを得たりしかど、一家の計《はかりごと》いまだ成らざるに、身は早く寡《か》となりぬ。人の世のあじきなさ、しみじみと骨にも透《とお》るばかりなり。もし妾のために同情の一掬《いっきく》を注《そそ》がるるものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
妾《しょう》が過ぎ来《こ》し方《かた》は蹉跌《さてつ》の上の蹉跌なりき。されど妾は常に戦《たたか》えり、蹉跌のためにかつて一度《ひとたび》も怯《ひる》みし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり。この天職を自覚すればこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔も懐《なつ》かしくは思うなれ。
妾の懺悔《ざんげ》、懺悔の苦悶これを愈《いや》すの道は、ただただ苦悶にあり。妾が天職によりて、世と己《おの》れとの罪悪と戦うにあり。
先に政権の独占を憤《いきどお》れる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心《せきしん》資本の独占に抗して、不幸なる貧者《ひんしゃ》の救済に傾《かたむ》けるなり。妾が烏滸《おこ》の譏《そし》りを忘れて、敢《あ》えて半生の経歴を極《きわ》めて率直に少しく隠す所なく叙《じょ》せんとするは、強《あなが》ちに罪滅ぼしの懺悔《ざんげ》に代《か》えんとには非《あら》ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。
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第一 家庭
一 贋《まが》いもの
妾《しょう》は八、九歳の時、屋敷内《やしきうち》にて怜悧《れいり》なる娘と誉《ほ》めそやされ、学校の先生たちには、活発なる無邪気なる子と可愛がられ、十一、二歳の時には、県令学務委員等の臨《のぞ》める試験場にて、特に撰抜せられて『十八史略』や、『日本外史』の講義をなし、これを無上の光栄と喜びつつ、世に妾ほど怜悧なる者はあるまじなど、心|私《ひそ》かに郷党《きょうとう》に誇りたりき。
十五歳にして学校の助教諭を托せられ、三円の給料を受けて子弟を訓導するの任に当り、日々勤務の傍《かたわ》ら、復習を名として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校を凌《しの》がんばかりの隆盛を致せり。
学校に通う途中、妾は常に蛮貊《わんぱく》小僧らのために「マガイ」が通る「マガイ」が通ると罵《ののし》られき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時|妾《しょう》は実に「マガイ」なりしなり。「マガイ」とは馬爪《ばづ》を鼈甲《べっこう》に似たらしめたるにて、現今の護謨《ゴム》を象牙《ぞうげ》に擬《ぎ》せると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如何《いか》ばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、起居《ききょ》振舞《ふるまい》のお転婆《てんば》なりしは言うまでもなく、修業中は髪を結《ゆ》う暇《いとま》だに惜《お》しき心地《ここち》せられて、一向《ひたぶる》に書を読む事を好みければ、十六歳までは髪を剪《き》りて前部を左右に分け、衣服まで悉《ことごと》く男生《だんせい》の如くに装《よそお》い、加《しか》も学校へは女生と伴《ともの》うて通いにき。近所の小供《こども》らのこれを観《み》て異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとは罵りしなるべし。これを懐《おも》うごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう世心《よごころ》の付き初《そ》めて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて束髪《そくはつ》の仲間入りはしたりける。
二 自由民権
十七歳の時は妾《しょう》に取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論客《ろんかく》多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉石久米雄《はいしくめお》氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の戯《たわむ》れに物せし大津絵《おおつえ》ぶしあり。
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すめらみの、おためとて、備前《びぜん》岡山を始めとし、数多《あまた》の国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣《たびごろも》、親や妻子《つまこ》を振り捨てて。(詩入《しいり》)「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲や霞《かすみ》もほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」
[#ここで字下げ終わり]
尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に狂《きょう》せる時なりければ、妾《しょう》の月琴《げっきん》に和してこれを唄《うた》うを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生花《いけばな》、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙動《ふるま》いし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を和《やわ》らぐるに若《し》かずとて、八雲琴《やくもごと》、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと夜《よ》に入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。
三 縁談《えんだん》
十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想に適《かな》わずとて、謝絶しければ、父母も困《こう》じ果てて、ある日|妾《しょう》に向かい、家の生計意の如くならずして、倒産の憂《う》き目さえやがて落ちかからん有様なるに、御身《おんみ》とて何時《いつ》までか父母の家に留《とど》まり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いと切《せ》めたる御言葉《おんことば》なり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御恵《おんめぐ》みによりてもはや自活の道を得たれば、仮令《たとい》今よりこの家を逐《お》わるるとも、糊口《ここう》に事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままに永《なが》く膝下《しっか》に侍《じ》せしめ給え、学校より得る収入は悉《ことごと》く食費として捧《ささ》げ参《まい》らせ聊《いささ》か困厄《こんやく》の万一を補わんと、心より申し出《い》でけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は沙汰止《さたや》みとなりにき。
ああ世にはかくの如く、父兄に威圧《いあつ》せられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、如何《いか》でこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くも刻《きざ》み付けられたる願いなりける。
結婚|沙汰《ざた》の止《や》みてより、妾は一層学芸に心を籠《こ》め、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切|懇到《こんとう》に教授しければ、さらぬだに祖先より代々《よよ》教導を以て任とし来《きた》れるわが家《いえ》の名は、忽《たちま》ち近郷《きんごう》にまで伝えられ、入学の者日に増して、間もなく一家は尊敬の焼点《しょうてん》となりぬ。依《よ》りてある寺を借り受けて教場を開き、夜《よ》は更に昼間就学の暇《いとま》なき婦女、貧家《ひんか》の子弟に教え、母上は習字を兄上は算術を受け持ちて妾を助け、土曜日には討論会、演説会を開きて知識の交換を謀《はか》り、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採りぬ。
四 岸田女史|来《きた》る
その歳《とし》有名なる岸田俊子《きしだとしこ》女史([#ここから割り注]故中島信行氏夫人[#ここで割り注終わり])漫遊し来《きた》りて、三日間わが郷《きょう》に演説会を開きしに、聴衆雲の如く会場|立錐《りっすい》の地だも余《あま》さざりき。実《げ》にや女史がその流暢《りゅうちょう》の弁舌もて、滔々《とうとう》女権拡張の大義を唱道せられし時の如き妾《しょう》も奮慨おく能《あた》わず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等に議《はか》りて、女子懇親会を組織し、諸国に率先《そっせん》して、婦人の団結を謀《はか》り、しばしば志士|論客《ろんかく》を請《しょう》じては天賦《てんぷ》人権自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の陋習《ろうしゅう》を破らん事を務めしに、風潮の向かう所入会者引きも切らず、会はいよいよ盛大に赴《おもむ》きぬ。
五 納涼会
同じ年の夏、自由党員の納涼会を朝日川に催すこととなり、女子懇親会にも同遊を交渉し来《きた》りければ、元老女史竹内、津下《つげ》の両女史と謀《はか》りてこれに応じ、同日夕刻より船を朝日川に泛《うか》ぶ。会員楽器に和して、自由の歌を合奏す、悲壮の音《おん》水を渡りて、無限の感に打たれしことの今もなおこの記憶に残れるよ。折しも向かいの船に声こそあれ、白由党員の一人《いちにん》、甲板《かんぱん》の上に立ち上りて演説をなせるなり。殺気|凜烈《りんれつ》人をして慄然《りつぜん》たらしむ。市中ならんには警察官の中止解散を受くる際《きわ》ならんに、水上これ無政府の心|易《やす》さは何人《なんびと》の妨害もなくて、興《きょう》に乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せるこの時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現われて、会
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