に中止解散を命じぬ。図《はか》らざりきこの船遊びを胡乱《うろん》に思い、恐るべき警官が、水に潜《ひそ》みてその挙動を伺《うかが》い居たらんとは。船中の人々は今を興|闌《たけなわ》の時なりければ、河童《かっぱ》を殺せ、なぐり殺せと犇《ひし》めき合い、荒立ちしが、長者《ちょうじゃ》の言《げん》に従いて、皆々|穏《おだ》やかに解散し、大事《だいじ》に至らざりしこそ幸いなれ。されど妾《しょう》の学校はその翌日、時の県令|高崎《たかさき》某より、「詮議《せんぎ》の次第《しだい》有之《これあり》停止《ていし》候事《そうろうこと》」、との命を蒙《こうむ》りたり。詮議の次第とは何事ぞ、その筋に向かいて詰問する所ありしかど何故《なにゆえ》か答えなければ、妾の姉婿《しせい》某が県会議員常置委員たりしに頼《よ》りてその故を尋《たず》ねしめけるに、理由は妾が自由党員と船遊びを共にしたりというにありて、姉婿さえ譴責《けんせき》を加えられ、暫《しばら》く謹慎《きんしん》を表する身の上とはなりぬ。
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  第二 上京


 一 故郷を捨つ

 政府が人権を蹂躙《じゅうりん》し、抑圧を逞《たくま》しうして憚《はばか》らざるはこれにても明《あき》らけし。さては、平常先輩の説く処、洵《まこと》にその所以《ゆえ》ありけるよ。かかる私政に服従するの義務|何処《いずく》にかあらん、この身は女子なれども、如何《いか》でこの弊制《へいせい》悪法を除かずして止《や》むべきやと、妾《しょう》は怒りに怒り、※[#「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2−89−92]《はや》りに※[#「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2−89−92]りて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都に出《い》でて有志の士に謀《はか》らばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家を距《さ》る三里ばかりなる親友|山田小竹女《やまだこたけじょ》の許《もと》より、明日《みょうにち》村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、切《せつ》なる招待の状|来《きた》れり。そのまま東都に奔《はし》らんにいと序《つい》でよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも誘《いざな》いて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣《もう》で、暫《しばら》く黙祷《もくとう》して妾が志《こころざし》を祖先に告げぬ。初秋《はつあき》のいと爽《さわ》やかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に背《そむ》き、恩愛厚き父母の膝下《しっか》を離れんとする苦しさは、偲《しの》ぶとすれど胸に余りて、外貌《おもて》にや表われけん、帰るさの途上《みちみち》も、母上は妾の挙動を怪《あや》しみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御許《おんゆる》しこそなけれ母は御身《おんみ》を片田舎の埋木《うもれぎ》となすを惜しむ者、如何で折角《せっかく》の志を沮《はば》むべき、安《やす》んじて仔細《しさい》を語れよと、さりとは慈愛深き御仰《おんおお》せかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底|御許容《おんゆるし》なきを知ればなり。かくて先《ま》ず志士《しし》仁人《じんじん》に謀りて学資の輔助《ほじょ》を乞い、しかる上にて遊学の途《と》に上《のぼ》らばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大和《やまと》の豪農|土倉庄三郎《どくらしょうざぶろう》氏に懇願せんとて、先ずその地を志し窃《ひそ》かに出立《しゅったつ》の用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板垣伯《いたがきはく》を始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下阪《げはん》し、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機|逸《いっ》すべからずとて、遂《つい》に母上までも欺《あざむ》き参らせ、親友の招きに応ずと言い繕《つくろ》いて、一週間ばかりの暇《いとま》を乞い、翌日家の軒端《のきば》を立ち出《い》でぬ。実に明治十七年の初秋《はつあき》なりき。

 二 板垣伯に謁《えっ》す

 友人の家に著《つ》くより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど兼《かね》ての決心なり、明くれば友人の懇《ねんご》ろに引き止むるをも聴かず、暇乞《いとまご》いして大阪に向かいぬ。しかるに妾《しょう》と室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、頻《しき》りに妾の生地を尋ねつつ此方《こなた》の顔のみ注視する体《てい》なるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには非《あら》ざる乎《か》と、一旦《いったん》は少なからず危《あや》ぶめるものから、もと妾の郷《きょう》を出づるは不束《ふつつか》ながら日頃の志望を遂《と》げんとてなり、かの墻《かき》を越えて奔《はし》るなどの猥《みだ》りがましき類ならねば、将《は》た何をか包み秘《かく》さんとて、頓《やが》て東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を洩《も》らしけるに、さらばその親戚は誰《た》れ町名番地は如何《いか》になど、執拗《しゅう》ねく問わるることの蒼蝿《うるさ》くて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし乎《か》、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉皇《そうこう》起《た》って事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は妾《しょう》の何人《なんびと》なるかを問い究《きわ》むる暇もなく、その人に牽《ひか》れて来り見れば、何ぞ図《はか》らん従妹《じゅうまい》の妾なりけるに、更に思い寄らぬ体《てい》にて、何故《なにゆえ》の東上にや、両親には許可を得たりやなど、畳《たた》みかけて問い出でぬ。固《もと》より承諾を得たりとは、その場合われと心を欺《あざむ》ける答えなりしが、果ては質問の箭《や》の堪えがたなく、最《い》とど苦しき胸を押さえ額《ひたい》を擦《さす》りて、眩暈《めまい》に托言《ことよ》せ、委《くわ》しくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時|漸《ようよ》う大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を歓《よろこ》び迎え、しかも妾の新来を訝《いぶか》しうも思えるなるべし。その夕《ゆうべ》妾は遂《つい》に藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。妻《さい》は深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽力《じんりょく》せんと誓いぬ。
 その翌日直ちに土倉氏を銀水楼《ぎんすいろう》に訪れけるに、氏はいまだ出阪《しゅっぱん》しおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮様《せんよう》もなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓所《ぐうしょ》に訪れしに、葉石氏は妾《しょう》が出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、懇《ねんご》ろなる教訓を垂《た》れ給いき。されど妾の一念|翻《ひるがえ》すべくもあらずと見てか、強《し》いても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を陳《の》べよとあるに、妾は諾《うべな》いて遂に伯に謁《えっ》し、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御身《おんみ》が東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦家《ほうか》のため、人道のために勉《つと》めよとの御言葉《おんことば》なり。世にも有難《ありがた》くて感涙《かんるい》に咽《むせ》べるその日、図《はか》らざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不肖《ふしょう》ながら学資を供せんとの意味を含みし書翰《しょかん》にてありしかば、天にも昇る心地して従弟《いとこ》にもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉皇《そうこう》土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を陳《の》べ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一向《ひたぶる》に東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に依《よ》りて学資をさえ給《きゅう》せらるるの幸福を無視するは勿体《もったい》なしとて、終《つい》に公然東上の希望を容《い》れたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。

 三 書窓(しょそう)の警報

 それより数日《すじつ》を経て、板伯《はんはく》よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御身《おんみ》と同伴の事を頼み置きたり、直《す》ぐに来《こ》よ紹介せんとの事に、取り敢《あ》えず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹《さとうていかん》氏にてありければ、妾《しょう》はいよいよ安心して、翌日神戸|出帆《しゅっぱん》の船に同乗し、船の初旅も恙《つつが》なく将《は》た横浜よりの汽車の初旅も障《さわ》りなく東京に着《ちゃく》して、兼《か》ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『自由燈《じゆうのともしび》新聞』記者|坂崎斌《さかざきさかん》氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築地《つきじ》なる新栄《しんさかえ》女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、傍《かたわ》ら坂崎氏に就《つ》きて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一日《あるひ》朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端《はし》なくも妾の書窓《しょそう》を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、外《ほか》に対しては卑屈これ事とし、国家の恥辱《ちじょく》を賭《と》して、偏《ひとえ》に一時の栄華を衒《てら》い、百年の患《うれ》いを遺《のこ》して、ただ一身の苟安《こうあん》を冀《こいねが》うに汲々《きゅうきゅう》たる有様を見ては、いとど感情にのみ奔《はし》るの癖《くせ》ある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂《つい》に巾幗《きんこく》の身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰民《だみん》の眠りを覚《さま》しくれでは已《や》むまじの心となりしこそ端《はし》たなき限りなりしか。

 四 当時の所感

 ああかくの如くにして妾《しょう》は断然書を擲《なげう》つの不幸を来《きた》せるなりけり。当時妾の感情を洩《も》らせる一片《いっぺん》の文《ぶん》あり、素《もと》より狂者《きょうしゃ》の言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左《さ》に抜萃《ばっすい》することを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕傲《きょうごう》を憂うると共に、また昔時《せきじ》死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭《いと》えり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に抵《いた》るまでも已《や》まざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、頻《しき》りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸《ようや》くかの私欲私利に汲々《きゅうきゅう》たる帝国主義者の云為《うんい》を厭わしめぬ。
 ああ学識なくして、徒《いたずら》に感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂世《ゆうせい》愛国の女志士《じょしし》として、人も容《ゆる》されき、妾も許しき。姑《しば》らく女志士として語らしめよ。

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   獄中《ごくちゅう》述懐《じゅっかい》([#ここから割り注]明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳[#ここで割り注終わり])
元来|儂《のう》は我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習《ろうしゅう》に慣れ、卑々屈々《ひひくつくつ》男子の奴隷《どれい》たるを甘《あま》んじ、天賦《てんぷ》自由の権利あるを知らず己《おの》れがた
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