》にはなつかしき母上の飛び出で給いて、やれ無事に帰りしか、大病を悩《わず》らいしというに、かく健《すこ》やかなる顔を見ることの嬉しさよと涙片手に取り縋《すが》られ、アア今日は芽出《めで》たき日ゆえ泣くまじと思いしに、覚えず嬉し涙がこぼれしとて、兄弟|甥姪《おいめい》を呼びて、それぞれに喜びを分ち給う。挨拶《あいさつ》終りて、ふと傍《かたわ》らに一青年のあるに心付き、この人よ、船中にても種々《いろいろ》親切に世話しくれたり、彼はそも何人《なんぴと》なりやと尋《たず》ねしに、そは何《な》にをいう、弟|淳造《じゅんぞう》を忘れしかといわれて一驚《いっきょう》を喫《きっ》し、さても変れば変る者かな、妾《しょう》の郷を出でしは七年の昔、彼が十三、四の蛮貊盛《わんぱくざか》りなりし頃なり、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばるる身の上なりとか。実《げ》に人の最も変化するは十三歳頃より十七、八歳の頃にぞある、見違えしも宜《むべ》ならずやなど笑い興じて、共に腕車《わんしゃ》に打ち乗り、岡山有志家の催しにかかる慰労の宴に臨《のぞ》まんため、岡山公園なる観楓閣《かんぷうかく》指して出立《いでた》つ。
この公園は旧三十五万石を領せる池田侯爵の後園《こうえん》にして、四時の眺《なが》め尽せぬ日本三公園の一なり。宴の発企《ほっき》者は岡山屈指の富豪野崎氏その他知名の諸氏にしてわれわれおよび父母親戚を招待せられ、席上諸氏の演説あり、また有名の楽師を招きて、「自由の歌」と題せる慷慨《こうがい》悲壮の新体詩をば、二面の洋琴《ようきん》に和して歌わしむ。これを聴ける時、妾は思わず手を扼《やく》して、アアこの自由のためならば、死するもなどか惜しまんなど、無量の感に撃《う》たれたり。唱歌終りて葉石の答礼あり、それより酒宴は開かれ、各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》歓を尽して帰路につきたるは、頓《やが》て点燈頃《ひともしごろ》なりき。
三 久し振りの帰郷
かくて妾《しょう》は母、兄弟らに護られつつ、絶えて久しき故郷の家に帰る。想えばここを去りし時の淋《さび》しく悲しかりしに引き換えて、今は多くの人々に附き纏《まと》われ、賑々《にぎにぎ》しくも帰れることよ。今昔《こんじゃく》の感|坐《そぞ》ろに湧《わ》きて、幼児の時や、友達の事など夢の如く幻《まぼろし》の如く、はては走馬燈《まわりあんどん》の如くにぞ胸に往《ゆ》き来《こ》う。我が家に近き町はずれよりは、軒《のき》ごとに紅燈《こうとう》の影美しく飾られて宛然《さながら》敷地祭礼の如くなり。これはた誰《たれ》がための催しぞと思うに、穴にも入りたき心地ぞする、死したらんにはなかなか心易かるべしとも思いぬ。アアかかる款待《かんたい》を受けながら、妾が将来は如何《いか》に、重井《おもい》と私《ひそ》かに結婚を約せるならずや、そも妾は如何にしてこの厚意に報いんとはすらんなど、人知れず悶《もだ》え苦しみしぞかし。
四 大評判
我が家にては親戚故旧を招きて一大盛宴を張りぬ。絃妓《げんぎ》も来り、舞子も来りて、一家狂するばかりなり。宴終りて後《のち》、種々しめやかなる話しも出で、暁《あかつき》に至りて興はなお尽きざりき。七年の来《こ》し方《かた》を、一夜に語り一夜に聴かんと※[#「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2−89−92]《はや》れるなるべし。
明《あ》くれば郷里の有志者および新聞記者諸氏の発起《ほっき》にかかる慰労会あり、魚久《うおきゅう》という料理店に招かれて、朝鮮鶴の料理あり、妾らの関係せしかの事件に因《ちな》めるなりとかや。かくて数日《すじつ》の間は此処《ここ》の宴会|彼処《かしこ》の招待に日も足らず、平生《へいぜい》疎遠なりし親族さえ、妾を見んとてわれがちに集《つど》い寄るほどに、妾の評判は遠近に伝わりて、三歳の童子すらも、なお景山英《かげやまひで》の名を口にせざるはなかりしぞ憂き。
五 内縁
それより一、二カ月を経て、東京より重井ら大同団結遊説のため阪地《はんち》を経て中国を遊説するとの報あり。しかして妾には大阪なる重井の親戚《しんせき》某方《ぼうかた》に来りくるるようとの特信ありければ、今は躊躇《ちゅうちょ》の場合に非ずと、始めて重井との関係を両親に打ち明け、かつ今仮に内縁を結ぶとも、公然の批露《ひろう》は、ある時機を待たざるべからず、そは重井には現に妻女のあるあり、明治十七年以来発狂して人事を弁《わきま》えず、余儀なく生家に帰さんとの内意あれども、仮初《かりそ》めならぬ人のために終身の謀《はかりごと》だになしやらずして今急に離縁せん事思いも寄らず。されば重井もその職業とする弁護事務の好成績を積み、その内大事件の勝訴となりて数万《すまん》の金《きん》を得ん時、彼に贈りて一生を安からしめ、さて後に縁を絶たんといえり。さもあるべき事と思いければ、姑《しば》らく内縁を結ぶの約をなしたるなり、御意見|如何《いか》があるべきやと尋《たず》ねけるに、両親ともにあたかも妾の虚名に酔える時なりしかば、ともかくも御身《おんみ》の意見に任すべしと諾《うべな》われなお重井にして当地に来りなば、宅に招待して親戚にも面会させ、その他の兄弟とも余所《よそ》ながらの杯《さかずき》させん抔《など》、なかなかに勇み立たれければ、妾も安心して、大阪なる友人を訪《と》うを名とし重井に面して両親の意向を告げしに、その喜び一方《ひとかた》ならず、この上は直ちに御両親に見《まみ》えんとて、相挈《あいたずさ》えて岡山に来り、我が家の招待に応じて両親らとも妾の身の上を語り定めたる後《のち》、貴重なる指環《ゆびわ》をば親しく妾の指に嵌《は》めて立ち帰りしこそ、残る方《かた》なき扱いなれとて、妾は素《もと》より両親も頗《すこぶ》る満足の体《てい》に見受けられき。爾来《じらい》東京に大阪に将《は》た神戸に、妾は表面同志として重井と相伴い、演説会に懇親会に姿を並べつ、その交情日と共にいよいよ重《かさ》なり行きぬ。
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第十 閑話三則
一 一女生
その頃|妾《しょう》の召し連れし一女生あり。越後の生れにて、あたかも妙齢十七の処女なるにも似ず、何故か髪を断《き》りて男の姿を学び、白金巾《しろかなきん》の兵児帯《へこおび》太く巻きつけて、一見《いっけん》田舎の百姓息子の如く扮装《いでた》ちたるが、重井を頼りて上京し、是非とも景山《かげやま》の弟子にならんとの願いなれば、書生として使いくれよとの重井の頼み辞《いな》みがたく、先ずその旨《むね》を承諾して、さて何故にかかる変性男子《へんしょうだんし》の真似をなすにやと詰《なじ》りたるに、貴女《あなた》は男の如き気性《きしょう》なりと聞く、さらばかくの如き姿にて行かざらんには、必ずお気に入るまじと確信し、ことさらに長き黒髪を切り捨て、男の着る着物に換《か》えたりという。さては世間の妾を視《み》ること、かくまでに誤れるにや、それとも心付かずしてあくまでも男子を凌《しの》がんとする驕慢《きょうまん》疎野《そや》の女よと指弾《つまはじ》きせらるることの面目なさよ。有体《ありてい》にいえば、妾は幼時の男装を恥じて以来、天の女性に賜わりし特色をもて些《いささ》かなりとも世に尽さん考えなりしに、図《はか》らずも殺風景の事件に与《くみ》したればこそ、かかる誤認をも招きたるならめ。さきに男のすなる事にも関《かかずら》いしは事《こと》国家の休戚《きゅうせき》に関し、女子たりとも袖手《しゅうしゅ》傍観すべきに非《あら》ず、もし幸いにして、妾にも女の通性とする優しき情と愛とあらば、これを以て有為の士を奨《すす》め励《はげ》まし、及ばずながら常に男子に後援たらんとせしに外《ほか》ならず、かの男子と共に力を争い、将《は》た功を闘わさんなどは妾の思いも寄らぬ所なり。女は何処《どこ》までも女たれ男は何処までも男たれ、かくて両性互いに相輔《あいたす》け相補うてこそ始めて男女の要はあれと確信せるものなるに、図《はか》らずもかかる錯誤《さくご》を招きたるは、妾の甚《はなは》だ悲しむ所、はた甚だ快しとせざる所なるをもて、妾は女生に向かいて諄々《じゅんじゅん》その非を諭《さと》し、やがて髪を延ばさせ、着物をも女の物に換えしめけるに、あわれ眉目《びもく》艶麗《えんれい》の一美人と生れ変りて、ほどなく郷里に帰り、他に嫁《か》して美しき細君とはなりき。当時送り来りし新夫婦の写真今なおあり、これに対するごとにわれながら坐《そぞ》ろに微笑の浮ぶを覚えつ。
二 大奇談
その頃なお一層の奇談あり。妾が東京に家を卜《ぼく》せしある日の事、福岡県人菊池某とて当時|耶蘇《ヤソ》教伝道師となり、普教に勉《つと》めつつありたるが、時の衆議院議員、嘉悦氏房《かえつうじふさ》氏の紹介状を携《たずさ》え来りて、妾に面会せん事を求めぬ。固《もと》より如何《いか》なる人にても、かつて面会を拒《こば》みし事のなき妾は、直ちに書生をして客室《かくしつ》に請《しょう》ぜしめ、頓《やが》て出でて面せしに、何思いけん氏は妾の顔を凝視《ぎょうし》しつつ、口の内にてこれは意外これは意外といい、頗《すこぶ》る狼狽《ろうばい》の体《てい》にて妾の挨拶《あいさつ》に答礼だも施《ほどこ》さず、茫然《ぼうぜん》としていよいよ妾を凝視するのみ。妾は初め怪《あや》しみ、遂《つい》には恐れて、こは狂人なるべし、狂人を紹介せる嘉悦氏もまた無礼ならずやと、心に七分の憤《いきどお》りを含みながら、なお忍びに忍びて狂人のせんようを見てありしに、客は忽《たちま》ち慚愧《ざんき》の体にて容《かたち》を改め、貴嬢願わくはこの書を一覧あれとの事に、何心《なにごころ》なく披《ひら》き見れば、思いもよらぬ結婚申し込みの書なりけり。その文に曰《いわ》く(中略)貴嬢の朝鮮事件に与《くみ》して一死を擲《なげう》たんとせるの心意を察するに、葉石との交情旧の如くならず、他に婚を求むるも容貌《ようぼう》醜矮《しゅうわい》突額《とつがく》短鼻《たんび》一目《いちもく》鬼女《きじょ》怪物《かいぶつ》と異《こと》ならねば、この際身を棄《す》つる方|優《まさ》るらんと覚悟し、かくも決死の壮挙を企てたるなり。可憐《かれん》の嬢が成行きかな。我不幸にして先妻は姦夫《かんぷ》と奔《はし》り、孤独の身なり、かかる醜婦と結婚せば、かかる悲哀に沈む事なく、家庭も睦《むつ》まじく神に仕えらるるならんと云々《うんぬん》。かく読み終れる妾の顔に包むとすれど不快の色や見えたりけん、客はいとど面目なき体にて、アア誤《あやま》てり疎忽《そこつ》千万《せんばん》なりき。ただ貴嬢の振舞を聞きて、直ちに醜婦と思い取れる事の恥かしさよ。わが想像の仇《あだ》となれるを思うに、凡《およ》そ貴嬢を知るほどの者は必ず貴嬢を娶《めと》らんと希《ねが》う者なるべし。さあれ貴嬢にしてもしわが志《こころざし》を酌《く》み給わずば、われは遂《つい》に悲哀の淵《ふち》に沈み果てなん。アア口惜しの有様やとて、ほとんど自失せし様子なりしが、忽《たちま》ち小刀《ナイフ》をポッケットに探《さぐ》りて、妾に投げつけ、また卓子《テーブル》に突き立てて妾を脅迫し、強《し》いて結婚を承諾せしめんとは試みつ。さてこそ遂に狂したれと、妾は急ぎ書生を呼び、好《よ》きほどに待遇《あしら》わしめつつ、座を退《しりぞ》きてその後の成行きを窺《うかが》う中《うち》、書生は客を賺《すか》し宥《なだ》めて屋外に誘《いざな》い、自《みずか》ら築地《つきじ》なる某教会に送り届けたりき。
三 川上音二郎《かわかみおとじろう》
これより先、大阪滞在中和歌山市有志の招待を得て、重井《おもい》と同行する事に決し、畝下熊野《はたしたゆや》([#ここから割り注]現代議士山口熊野[#ここで割り注終わり])、小池平一郎《こいけへいいちろう》、前川虎造《まえかわとらぞう》の諸氏と共に同地に至り同所有志の発起《ほっき》に係《かか》る懇親会に臨《のぞ》みて、重井その
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