他の演説あり。妾にも一場《いちじょう》の演説をとの勧め否《いな》みがたく、ともかくもして責《せ》めを塞《ふさ》ぎ、更に婦人の設立にかかる婦人|矯風会《きょうふうかい》に臨みて再び拙《つたな》き談話を試み、一同と共に撮影しおわりて、前川虎造氏の誘引《ゆういん》により和歌《わか》の浦《うら》を見物し、翌日は田辺《たなべ》という所にて、またも演説会の催しあり、有志者の歓迎と厚き待遇とを受けて大いに面目を施《ほどこ》したりき。かく重井と共に諸所に遊説しおる内に、わが郷里附近よりも数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》招待を受けたり。この時世間にては、妾と葉石との間に結婚の約の継続しおることを信じ居たれば、葉石との同行誠に心苦しかりけれど、既に重井と諸所を遊説せし身の特《こと》に葉石との同行を辞《いな》まんようなく、かつは旧誼上《きゅうぎじょう》何となく不人情のように思われければ、重井の東京に帰るを機として妾も一旦《いったん》帰郷し、暫《しば》し当所の慰労会懇親会に臨みたり。とかくして滞在中|川上音二郎《かわかみおとじろう》の一行《いっこう》、岡山市|柳川座《やながわざ》に乗り込み、大阪事件を芝居に仕組みて開場のはずなれば、是非見物し給われとの事に、厚意《こうい》黙止《もだし》がたく、一日両親を伴いて行き見るに、その技芸|素《もと》より今日《こんにち》の如く発達しおらぬ時の事とて、科《しぐさ》といい、白《せりふ》といい、ほとんど滑稽に近く、全然|一見《いっけん》の価《あたい》なきものなりき。しかも当時大阪事件が如何《いか》に世の耳目《じもく》を惹《ひ》きたりしかは、市《し》の子女をしてこの芝居を見ざれば、人に非《あら》ずとまでに思わしめ、場内毎日|立錐《りっすい》の余地なき盛況を現《げん》ぜしにても知らるべし、不思議というも愚《おろ》かならずや。その興業中川上は数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》わが学校に来りて、その一座の重なる者と共に、生徒に講談を聴かせ、あるいは菓子を贈るなど頗《すこぶ》る親切|叮嚀《ていねい》なりしが、ある日|特《こと》に小介《こもの》をして大きなる新調の引幕《ひきまく》を持ち来らしめ、こは自分が自由民権の大義を講演する時に限りて用うべき幕なれば、何とぞわが敬慕する尊姉《そんし》の名を記入されたく、即ち表面上尊姉より贈られたるものとして、聊《いささ》か自分の面目を施《ほどこ》したしという。妾は当時の川上が性行《せいこう》を諒知《りょうち》し居たるを以て、まさかに新駒《しんこま》や家橘《かきつ》の輩《はい》に引幕を贈ると同一には視《み》らるることもあるまじとて、その事を諾《うべな》いしに、この事を聞きたる同地の有志家連は、身《み》自由平等を主張なしながら、いまだ階級思想を打破し得ざりしと見え、忽《たちま》ち妾に反対して頗《すこぶ》る穏やかならぬ形勢ありければ、余儀なくその意を川上に洩《も》らして署名を謝絶しけるに、彼は激昂《げっこう》して穏やかならぬ書翰《しょかん》を残し、即日岡山を立ち去りぬ。しかるにその翌二十三年かあるいは四年の頃と覚ゆ、妾も東上して本郷《ほんごう》切《き》り通《どお》しを通行の際、ふと川上一座と襟《えり》に染《そ》めぬきたる印半天《しるしばんてん》を着せる者に逢い、思わずその人を熟視せしに、これぞ外《ほか》ならぬ川上にして、彼も大いに驚きたるものの如く、一別《いちべつ》以来の挨拶振《あいさつぶ》りも、前年の悪感情を抱きたる様子なく、今度|浅草鳥越《あさくさとりごえ》において興業することに決し、御覧の如く一座の者と共に広告に奔走《ほんそう》せるなり、前年と違いよほど苦辛《くしん》を重ねたれば少しは技術も進歩せりと思う、江藤新平《えとうしんぺい》を演ずるはずなれば、是非御家族を伴《ともな》い御来観ありたしという。数日《すじつ》を経て果して案内状を送り来りければ、両親および学生友人を誘《いざな》いて見物せしに、なるほど一座の進歩驚くばかりなり、前年半ばは有志半ばは俳優なりし彼は終《つい》に爾《しか》く純然たる新俳優となりすませるなりき。彼はいえり、昔は拝顔さえ叶《かな》わざりし宮様方の、勿体《もったい》なくも御観劇ありし際|特《こと》に優旨《ゆうし》を以て御膝下《おんひざもと》近くまで御招《おんまね》きに預かり、御言葉《おんことば》を賜《たま》わるさえ勿体なきに、なお親しく握手せさせ給えりと、語り来りて彼は随喜《ずいき》の涙《なんだ》に咽《むせ》び、これも俳優となりたるお蔭《かげ》なりと誇り顔なり。アア彼もしわれらに親善ならんには彼の成功はなかりしならん、彼の成功は、全く自分の主義を棄《す》て、意気を失いしより得たる賜《たま》ものなりけり。さるにても人の心の頼めがたきは実《げ》に翻覆手《ほんぷくしゅ》にも似たるかな、昨日の壮士は今日の俳優、妾また何をか言わん。聞く彼は近年細君のお蔭にて大勲位侯爵の幇間《ほうかん》となり、上流紳士と称するある一部の歓心を求むる外《ほか》にまた余念あらずとか。彼もなかなか世渡りの上手なる漢《おとこ》と見えたり。この流の軟腸者|豈《あに》独《ひと》り川上のみならんや。
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  第十一 母となる


 一 妊娠

 これより先、妾のなお郷地に滞在せし時、葉石《はいし》との関係につき他《た》より正式の申し込みあり、葉石よりも直接に旧情を温めたき旨《むね》申し来るなど、心も心ならざるより、東京なる重井《おもい》に柬《かん》してその承諾を受け、父母にも告げて再び上京の途《と》に就《つ》きしは二十二年七月下旬なり。この頃より妾の容体《ようだい》尋常《ただ》ならず、日を経るに従い胸悪く頻《しき》りに嘔吐《おうど》を催しければ、さてはと心に悟《さと》る所あり、出京後重井に打ち明けて、郷里なる両親に謀《はか》らんとせしに彼は許さず、暫《しばら》く秘して人に知らしむる勿《なか》れとの事に、妾は不快の念に堪《た》えざりしかど、かかる不自由の身となりては、今更に詮方《せんかた》もなく、彼の言うがままに従うに如《し》かずと閑静なる処に寓居《ぐうきょ》を構《かま》え、下婢《かひ》と書生の三人暮しにていよいよ世間婦人の常道を歩み始めんとの心構《こころがま》えなりしに、事実はこれに反して、重井は最初妾に誓い、将《は》た両親に誓いしことをも忘れし如く、妾を遇することかの口にするだも忌《いま》わしき外妾同様の姿なるは何事ぞや。如何《いか》なる事情あるかは知らざれども、妾をかかる悲境に沈ましめ、殊《こと》に胎児にまで世の謗《そし》りを受けしむるを慮《おもんばか》らずとは、これをしも親の情というべきかと、会合の都度《つど》切《せつ》に言い聞えけるに、彼もさすがに憂慮の体《てい》にて、今暫く発表を見合《みあわ》しくれよ、今郷里の両親に御身《おんみ》懐胎《かいたい》の事を報ぜんには、両親とても直ちに結婚発表を迫らるべし、発表は容易なれども、自分の位地として、また御身の位地として相当の準備なくては叶《かな》わず、第一病婦の始末だに、なお付きがたき今日の場合、如何《いかん》ともせんようなきを察し給え。目下弁護事務にて頗《すこぶ》る有望の事件を担当しおり、この事件にして成就《じょうじゅ》せば、数万《すまん》の報酬《ほうしゅう》を得んこと容易なれば、その上にて総《すべ》て花々しく処断すべし、何とぞ暫しの苦悶を忍びて、胎児を大切に注意しくれよと他事《たじ》もなき頼みなり。素《もと》より彼を信ずればこそこの百年の生命をも任したるなれ、かくまで事を分けられて、なおしもそは偽りならん、一時|遁《のが》れの間《ま》に合《あわ》せならんなど、疑うべき妾にはあらず、他日両親の憤《いきどお》りを受くるとも、言い解《と》く術《すべ》のなからんやと、事に托《たく》して叔母《おば》なる人の上京を乞い、事情を打ち明けて一身《いっしん》の始末を托し、ひたすら胎児の健全を祈り、自ら堅く外出を戒《いまし》めしほどに、景山《かげやま》は今|何処《いずく》にいるぞ、一時を驚動せし彼女の所在こそ聞かまほしけれなど、新聞紙上にさえ謳《うた》わるるに至りぬ。

 二 分娩《ぶんべん》、奇夢

 その間の苦悶そもいくばくなりしぞや。面白からぬ月日を重ねて翌二十三年三月上旬一男子を挙《あ》ぐ。名はいわざるべし、悔《くい》ある堕落の化身《けしん》を母として、明《あか》らさまに世の耳目《じもく》を惹《ひ》かせんは、子の行末《ゆくすえ》のため、決して好《よ》き事にはあらざるべきを思うてなり。ただその命名につきて一場《いちじょう》の奇談あり、迷信の謗《そし》り免《まぬ》かれずとも、事実なれば記《しる》しおくべし。その子の身に宿りしより常に殺気を帯べる夢のみ多く、ある時は深山《しんざん》に迷い込みて数千《すせん》の狼《おおかみ》に囲《かこ》まれ、一生懸命の勇を鼓《なら》して、その首領なる老狼《ろうろう》を引き倒し、上顎《うわあご》と下顎《したあご》に手をかけて、口より身体までを両断せしに、他《た》の狼児は狼狽《ろうばい》して悉《ことごと》く遁失《にげう》せ、またある時は幼時かつて講読したりし、『十八史略』中の事実、即ち「禹《う》江《こう》を渡る時、蛟竜《こうりょう》船を追う、舟中《しゅうちゅう》の人皆|慴《おそ》る、禹《う》天を仰いで、嘆じて曰《いわ》く、我|命《めい》を天に享《う》く、力を尽して、万民を労す、生は寄なり、死は帰なりと、竜《りょう》を見る事、蜿※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《えんてい》の如く、眼色《がんしょく》変ぜず、竜|首《こうべ》を俯《ふ》し尾を垂《た》れて、遁《のが》る。」といえる有様の歴々《ありあり》と目前に現われ、しかも妾は禹の位置に立ちて、禹の言葉を口に誦《しょう》し、竜をして遂《つい》に辟易《へきえき》せしめぬ。しかるに分娩《ぶんべん》の際は非常なる難産にして苦悶二昼夜にわたり、医師の手術によらずば、分娩|覚束《おぼつか》なしなど人々立ち騒げる折しも、あたかも陣痛起りて、それと同時に大雨《たいう》篠《しの》を乱しかけ、鳴神《なるかみ》おどろおどろしく、はためき渡りたるその刹那《せつな》に、児《じ》の初声《うぶこえ》は挙《あが》りて、さしも盆《ぼん》を覆《くつがえ》さんばかりの大雨も忽《たちま》ちにして霽《は》れ上《あが》りぬ。後《あと》にて書生の語る所によれば、その日雨の降りしきれる時、世にいう竜《たつ》まきなるものありて、その蛇《へび》の如き細き長き物の天上するを見たりきという。妾は児の重《かさ》ね重《がさ》ね竜に縁あるを奇として、それに因《ちな》める名をば命《つ》けつ、生《お》い先の幸《さち》多かれと祷《いの》れるなりき。

 三 児《じ》の入籍

 児を分娩すると同時に、またも一《いつ》の苦悶は出で来りぬ。そは重井と公然の夫婦ならねば、児の籍をば如何《いか》にせんとの事なりき。幸いなるかな、妾の妊娠中しばしば診察を頼みし医師は重井と同郷の人にして、日頃重井の名声を敬慕し、彼と交誼《こうぎ》を結ばん事を望み居たれば、この人によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に謀《はか》る所ありしに、義侠《ぎきょう》に富める人なりければ直ちに承諾し、己れいまだ一子《いっし》だになきを幸い、嫡男《ちゃくなん》として役所に届け出でられぬ。かくて両人とも辛《かろ》うじて世の耳目《じもく》を免かれ、死よりもつらしと思える難関を打ち越えて、ヤレ嬉しやと思う間もなく、郷里より母上|危篤《きとく》の電報は来りぬ。

 四 愛着

 分娩後いまだ三十日とは過ぎざりしほどなりければ、遠路の旅行危険なりと医師は切《せつ》に忠告したり。されど今回の分娩は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言い分けがたく、殊《こと》には母上の病気とあるに、争《いか》で余所《よそ》にやは見過ごすべき、仮《よ》し途中にて死なば死ね、思い止《と》まるべくもあらずとて、人々の諌《いさ》むるを聞かず、叔母《おば》と乳母《うば》とに
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