空《むな》しうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに、両親の機嫌《きげん》見る見る変りて、不孝者よ、恩知らずよと叱責《しっせき》したり。已《や》むなく前言を取り消して、永く膝下《しっか》にあるべき旨《むね》を答えしものから、七年の苦学を無にして田夫野人《でんぷやじん》と共に耒鋤《らいじょ》を執《と》り、貴重の光陰《こういん》を徒費《とひ》せんこと、如何《いか》にしても口惜しく、また妾の将来とても、到底農家に来りて馴《な》れぬ養蚕|機織《はたお》りの業《わざ》を執り得べき身ならねば、一日も早く資金を造りて、各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》長ずる道により、世に立つこそよけれと悟《さと》りければ、再び両親に向かいて、財産は弟に譲り自分は独立の生計を求めんと決心せるよしを述べ、さて少許《しょうきょ》の資本の分与《ぶんよ》を乞いしに、思いも寄らぬ有様にて、家を思わぬ人でなしと罵《ののし》られ、忽《たちま》ち出で行けがしに遇せられければ、大いに覚悟する所あり、遂《つい》に再び流浪《るろう》の客《かく》となりて東京に来り、友人の斡旋《あっせん》によりて万朝報社《よろずちょうほうしゃ》の社員となりぬ。彼が月給を受けたるは、これが始めての終りなりき。

 三 夫婦相愛

 これより漸《ようや》く米塩《べいえん》の資を得たれども、彼が出京せし当時はほとんど着のみ着のままにて、諸道具は一切|屑屋《くずや》に売り払い、遂《つい》には火鉢の五徳《ごとく》までに手を附けて、僅《わず》かに餓死《がし》を免がるるなど、その境遇の悲惨なるなかなか筆紙《ひっし》の尽し得る所にあらざりしかど、富豪の家に人となりし彼の、別に苦情を訴うることもなく、むしろ清貧に安んじたりし有様は、妾《しょう》をして、坐《そぞ》ろ気の毒の感に堪えざらしめき。妾はこれに引き換えて、素《もと》より貧窶《ひんる》に馴《な》れたる身なり、そのかつて得んと望める相愛の情を得てよりは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めける権門《けんもん》の令夫人よ、御身《おんみ》が偽善的儀式の愛に欺《あざむ》かれて、終生浮ぶ瀬《せ》のなき凌辱《りょうじょく》を蒙《こうむ》りながら、なお儒教的教訓の圧制に余儀なくせられて、窃《ひそ》かに愛の欠乏に泣きつつあるは、妾の境遇に比して、その幸不幸|如何《いか》なりやなど、少なからぬ快感を楽しむなりき。妾は愛に貴賤《きせん》の別なきを知る、智愚《ちぐ》の分別《ふんべつ》なきを知る。さればその夫にして他に愛を分ち我を恥かしむる行為あらば、我は男子が姦婦《かんぷ》に対するの処置を以てまた姦夫《かんぷ》に臨まんことを望むものなり。東洋の女子|特《こと》に独立自営の力なき婦人に取りて、この主義は余り極端なるが如くなれども、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進せしむべき者、男子は時と場合とによりて、いわゆる都合によりてその愛を四方八方に立ち寄らしむるを得る者といわば、誰かその片手落ちなるに驚かざらんや。人道を重んずる人にして、なおこの不公平なる所置を怪しまず、衆口同音婦人を責むるの惨酷《ざんこく》なる事、古来習慣のしからしむる所といわばいえ、二十世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地なきなり。さりながら、こは独《ひと》り男子の罪のみに非《あら》ず、婦人の卑屈なる依頼心、また最も与《あずか》りて悪風習の因となれるなるべし。彼らは常にその良人に見捨てられては、忽《たちま》ち路頭に迷わんとの鬼胎《おそれ》を懐《いだ》き、何でも噛《かじ》り付きて離れまじとは勉《つと》むるなり。故にその愛は良人に非ずして、我が身にあり、我が身の饑渇《きかつ》を恐るるにあり、浅ましいかな彼らの愛や、男子の狼藉《ろうぜき》に遭《あ》いて、黙従の外《ほか》なきはかえすがえすも口惜しからずや。思うに夫婦は両者相愛の情一致して、ここに始めて成立すべき関係なるが故に、人と人との手にて結び合わせたる形式の結婚は妾《しょう》の首肯《しゅこう》する能《あた》わざる所、されば妾の福田と結婚の約を結ぶや、翌日より衣食の途《みち》なきを知らざるに非ざりしかど、結婚の要求は相愛にありて、衣服に非ざることもまた知れり、衣服の顧《かえり》みるに足らざることもまた知れり、常識なき痴情《ちじょう》に溺《おぼ》れたりという莫《なか》れ、妾が良人の深厚《しんこう》なる愛は、かつて少しも衰えざりし、彼は妾と同棲せるがために数万《すまん》の財を棄つること、あたかも敝履《へいり》の如くなりき。結婚の一条件たりし洋行の事は、夫婦の一日も忘れざる所なりしも、調金の道いまだ成らざるに、妾は尋常《ただ》ならぬ身となり、事皆|志《こころざし》と差《ちが》いて、貧しき内に男子を挙げ、名を哲郎《てつろう》とは命じぬ。

 四 神頼み

 しかるに生れて二月《ふたつき》とはたたざる内に、小児は毛細気管支炎《もうさいきかんしえん》という難病にかかり、とかくする中、危篤の有様に陥りければ、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚にかえりて、風の日も雨の日も厭《いと》うことなく、住居を離《さ》る十町ばかりの築土八幡宮《つくどはちまんぐう》に参詣《さんけい》して、愛児の病気を救わせ給えと祷《いの》り、平生《へいぜい》嗜《たしな》める食物娯楽をさえに断《た》ちたるに、それがためとにはあらざるべけれど、それよりは漸次《ぜんじ》快方に赴《おもむ》きければ、単《ひとえ》に神の賜物《たまもの》なりとて、夫婦とも感謝の意を表し、その後《のち》久しく参詣を怠らざりき。

 五 有形無形

 妾|幼《よう》より芝居|寄席《よせ》に至るを好《この》み、また最も浄瑠璃《じょうるり》を嗜《たしな》めり。されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、機《おり》に触れては勧め誘《いざな》いたれど、既に無形の娯楽を得たり、復《ま》た形骸《けいがい》を要せずと辞《いな》みて応ぜず。ただわが家庭を如何《いか》にして安穏《あんおん》に経過せしめんかと心はそれのみに奔《はし》りて、苦悶の中《うち》に日を送りつつも、福田の苦心を思いやりて共に力を協《あわ》せ、僅《わず》かに職を得たりと喜べば、忽《たちま》ち郷里に帰るの事情起る等にて、彼が身心の過労|一方《ひとかた》ならず、彼やこれやの間に、可借《あたら》壮健の身を屈托せしめて、なすこともなく日を送ることの心|許《もと》なさ。

 六 渡韓の計画

 かくては前途のため善《よ》からじと思案して、ある日|将来《ゆくすえ》の事ども相談し、かついろいろと運動する所ありしに、機《おり》よくも朝鮮政府の法律顧問なる資格にて、かの地へ渡航するの便《びん》を得たるを以て、これ幸いと郷里にも告げず、旅費等は半《なか》ば友人より、その他は非常の手だてにて調《ととの》え、渡韓の準備全く整《ととの》いぬ。当時朝鮮政府に大改革ありて、一時日本に亡命の客《かく》たりし朴泳孝《ぼくえいこう》氏らも大政《たいせい》に参与し、威権|赫々《かくかく》たる時なりければ、日本よりも星亨《ほしとおる》、岡本柳之助《おかもとりゅうのすけ》氏ら、その聘《へい》に応じて朝廷の顧問となり、既にして更に西園寺《さいおんじ》侯爵《こうしゃく》もまた勅《ちょく》を帯びて渡韓したりき。故に福田はこれらの人によりてかの国有志の重立《おもだ》ちたる人々に交わりを求むるも難《かた》からず、またかの国法務大臣|徐洪範《じょこうはん》は、かつて米国遊学中の同窓の友なれば重ね重ね便宜ありと勇みすすみて、いよいよ出立《しゅったつ》の日妾に向かい、内地にては常に郷里のために目的を妨《さまた》げられ、万事に失敗して御身《おんみ》にまで非常の心痛をかけたりしが、今回の行《こう》によりて、聊《いささ》かそを償《つぐな》い得べし。御身に病児を托す、願わくは珍重《ちんちょう》にせよかしとて、決然|袂《たもと》を分《わか》ちしに、その後《のち》二週間ばかりにして、またもや彼が頭上に一大災厄の起らんとは、実《げ》にも悲しき運命なるかな。

 七 妨害運動

 これより先、郷里の両親らは福田が渡韓の事を聞きて彼を郷里に呼び返すことのいよいよ難《かた》きを憂《うれ》い、その極|高利貸《こうりかし》をして、福田が家資分産《かしぶんさん》の訴えを起さしめ、かくして彼の一身《いっしん》を縛《しば》り、また公権をさえ褫奪《ちだつ》して彼をして官途に就《つ》く能《あた》わざらしめ、結局|落魄《らくはく》して郷里に帰るの外《ほか》に途《みち》なからしめんと企てたり。されば彼の仁川《じんせん》港に着するや、右の宣告書は忽《たちま》ち領事館より彼が頭上に投げ出《いだ》されぬ。彼はその両親の慈愛が、かくまで極端なるべしとは、夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほどの苦しき金《かね》をも調達して最愛の妻や病児をも跡《あと》に残して、あかぬ別れを敢《あ》えてしたるなるに、慈愛はなかなか仇《あだ》となりて、他に語るも恥かしと、帰京後男泣きに泣かれし時の悲哀そもいくばくなりしぞ。実に彼は死よりもつらき不面目を担《にな》いつつ、折角《せっかく》新調したりし寒防具その他の手荷物を売り払いて旅費を調《ととの》え、漸《ようや》く帰京の途《と》にはつき得たるなりき。

 八 血を吐く思い

 横浜に着すると同時に、妾《しょう》にちょっと当地まで来れよとの通信ありければ、病児をば人に托して直ちに旅館に至りしに、彼が顔色《がんしょく》常ならず、身に附くものとては、ただ一着の洋服のみとなりて、いとど帰国の本意《ほい》なき事を語り出でられぬ。妻の手前ながら定めて断腸《だんちょう》の思いなりしならんに、日頃|耐忍《たいにん》強き人なりければ、この上はもはや詮方《せんかた》なし、自分は死せる心算《しんさん》にて郷里に帰り、田夫野人《でんぷやじん》と伍《ご》して一生を終うるの覚悟をなさん。かく志《こころざし》を貫《つらぬ》く能《あた》わずして、再び帰郷するの止《や》むなきに至れるは、卿《おんみ》に対しまた朋友《ほうゆう》に対して面目なき次第なるも、如何《いかん》せん両親の慈愛その度に過ぎ、われをして遂《つい》に膝下《しっか》に仕《つか》えしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじて児《じ》のために犠牲とならん、何とぞこの切《せつ》なる心を察して、姑《しば》らく時機を待ちくれよという。今は妾も否《いな》みがたくて、終《つい》に別居の策を講ぜしに、かの子煩悩《こぼんのう》なる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一子《いっし》を分ちて、家庭の冷《ひや》やかさを忘れしめよとあるに、これ将《は》た辞《いな》みがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛を和《やわら》げんよすがにもと、遂《つい》に哲郎をば彼の手に委《ゆだ》ねつ。その当時の悲痛を思うに、今も坐《そぞ》ろに熱涙《ねつるい》の湧《わ》くを覚ゆるぞかし。

 九 新生活

 かくて彼は再び鉄面を被《かぶ》り愛児までを伴《ともな》いて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極|帰家《きか》せしを喜び、何《なに》とかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、毫《ごう》も慈母の撫育《ぶいく》に異《こと》なることなく、終日その傍《かたわら》に絆《ほだ》されて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心の体《てい》にて親《みずか》ら愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、妾《しょう》に対してさえ、毎月|若干《じゃっかん》の手当てを送るに至りけるが、夫婦|相思《そうし》の情は日一日に弥《いや》増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男|侠太《きょうた》の誕生《たんじょう》間もなく、親族の者より、妾に来郷《らいきょう》の事を促《うなが》し来りぬ、
前へ 次へ
全18ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福田 英子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング