かかる中にも葉石は、時々看守の目を偸《ぬす》みて、紙盤《しばん》にその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるを詰《なじ》るを例とせり。([#ここから割り注]紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられこれに意志を認めて公判廷に持参しかくて弁論の材料となせるなり[#ここで割り注終わり])さりながら妾は長崎にて決心せし以来再び同志の言を信ぜず、御身《おんみ》は愛を二、三にも四、五にもする偽君子《ぎくんし》なり、ここに如何《いかん》ぞ純潔の愛を玩《もてあそ》ばしめんやと、いつも冷淡に回答しやりたりき。意外なりしは重井より心情を籠《こ》めし書状を送り来りし事なり。東京在住中、妾《しょう》は数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》その邸《てい》に行きて、富井女史救い出しの件につき、旅費補助の事まで頼みし事ありしが、当時氏は女のさし出がましきを厭《いと》い将《は》た妾らが国事に奔走するを忌《い》むの風《ふう》ありしに、思いきや今その真心に妾を思うこと切《せつ》なるよしを言い越されんとは。妾は更に合点《がてん》行かず、ただ女珍しの好奇心に出でたるものと大方に見過して、いつも返事をなさざりしに、終《つい》には挙動にまで、その思いの表われて、如何《いか》にも怪《あや》しう思わるるに、かくまでの心入れを、如何《いか》でこのままにやはあるべきと、聊《いささ》か慰藉《いしゃ》の文を草して答えけるに、爾来《じらい》両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石に懲《こ》りし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。これぞ実《げ》に妾が半生を不幸不運の淵《ふち》に沈めたる導火線なりけると、今より思えばただ恐ろしく口惜しかれど、その当時は素《もと》よりかかる成行《なりゆ》きを予知すべくもあらず、一向《ひたぶる》に名声|赫々《かくかく》の豪傑を良人《おっと》に持ちし思いにて、その以後は毎日公判廷に出《い》づるを楽しみ、かの人を待ち焦《こが》れしぞかつは怪しき。かくて妾は宛然《さながら》甘酒に酔いたる如くに興奮し、結ばれがちの精神も引き立ちて、互いに尊敬の念も起り、時には氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1−86−48]《いんうん》たる口気《こうき》に接して自《おの》ずから野鄙《やひ》の情も失《う》せ、心ざま俄《にわか》に高く品性も勝《すぐ》れたるよう覚えつつ、公判も楽しき夢の間《ま》に閉じられ、妾は一年有余の軽禁錮《けいきんこ》を申し渡されたり。重井、葉石らの重《おも》だちたる人々は、有期流刑とか無期とかの重罪なりければ、いずれも上告の申し立てをなしたれども、妾のみは既決に編入せられつ。なお同志の人々と同じ大阪にあるを頼みにて、時にはかの人の消息を聞く事もあらんなど、それをのみ楽しみに思いしに、やがて三重県津市に転監せらるると聞きし時の失望は、木より落ちたる猿《ましら》のそれにも似たらんかし。
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  第七 就役


 一 典獄の訓誨《くんかい》

 伊勢へは我々一年半の刑を受けし人のみにて、十数人の同行者あり。常ならば東海道の五十三|駅《つき》詩にもなるべき景色ならんに、柿色の筒袖《つつそで》に腰縄さえ付きて、巡査に護送せらるる身は、われながら興さめて、駄句《だく》だに出《い》でず、剰《あまつさ》え大阪より附き添い来りし巡査は皆|草津《くさつ》にて交代となりければ、切《せ》めてもの顔|馴染《なじみ》もなくなりて、憂《う》きが中に三重県津市の監獄に着く。到着せしは黄昏《こうこん》の頃なりしが、典獄は兼《か》ねて報知に接し居たりと見え、特に出勤して、一同を控所に呼び集め、今も忘れやらざる大声にて、「拙者は当典獄|平松宜棟《ひらまつぎとう》である、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に伝逓《でんてい》に相成りたる被告人らである、当典獄の配下の許《もと》に来りし上は申すまでもなく能《よ》く獄則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはその方《ほう》らの身分職業姓名を申し立てよ」と、一同をして名乗らしめ、さて妾《しょう》の番になりし時、「お前はいわんでも分る、景山英《かげやまひで》であろう、妙齢の身にしてかかる大事を企て、今|拙者《せっしゃ》の前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう、アア今頃は何処《どこ》にどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前の事を心配しているに相違ない、お前も親を思わぬではなかろう、一朝《いっちょう》国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ」と同情の涙を籠《こ》めての訓誨《くんかい》に、悲哀の念急に迫りて、同志の手前これまで堪《こら》えに堪え来りたる望郷の涙は、宛然《さながら》に堰《せき》を破りたら
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