の感情に駆られて、葉石に宛《あ》てたりし永別の書が、端《はし》なくも世に発表せられしことを思いてわれながら面目なく、また葉石に対し何となく気の毒なる情も起り、葉石にしてもしこの書を見ば、定めて良心に恥じ入りたらん、妾の軽率を憤《いきどお》りもしたらん、妾は余りに一徹なりき、彼が皎潔《こうけつ》の愛を汚《けが》し、神聖なる恋を蹂躙《じゅうりん》せしをば、如何《いか》にしても黙止《もくし》しがたく、もはや一週間内にて、死する身なれば、この胸中に思うだけをば、遺憾《いかん》なく言い遺《のこ》し置かんとの覚悟にて、かの書翰《しょかん》は認《したた》めしなれば、義気《ぎき》ある人、涙《なんだ》ある人もしこれを読まば、必ず一掬《いっきく》同情の涙に咽《むせ》ぶべきなれど、葉石はそもこれを何とか見るらん、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。彼はこの書翰のために、有志の面目をも損ずるなるべし、威厳をも傷《そこな》うなるべし、さても気の毒の至りなるかな。妾とても再び彼ら同志に逢《あ》わざるべきを、予想したればこそ、かく夫婦の契約あることを発表せしなれ、今日《こんにち》の境遇あるを予知せば、もはや愛の冷却せる者に向かいて、強《し》いて旧事を発表し、相互の不利益を醸《かも》すが如き、愚をばなさざりしならんに。さりながら妾は実に、同志の無情を嘆ぜしなり、特《こと》に葉石の無情を怨《うら》みしなり、生きて再び恋愛の奴《やっこ》となり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじ順《したが》うよりは、むしろ潔《いさぎよ》く、自由民権の犠牲たれと決心して、かくも彼の反省を求めしなるに、同志の手には落ちずして、かえって警察官の手に入らんとは、かえすがえすも面伏《おもぶ》せなる業《わざ》なりけり。いでや公判開廷の日には、病《やまい》と称して、出廷を避くべきかなど、種々に心を苦しめしかど、その甲斐《かい》遂《つい》にあらざりき。
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第六 公判
一 護送の途上
いよいよその日ともなれば、また三年振りにて、娑婆《しゃば》の空気に触るる事の嬉しく、かつは郷里より、親戚|知己《ちき》の来り会して懐《なつ》かしき両親の消息を齎《もたら》すこともやと、これを楽しみに看守に護《まも》られ、腕車《わんしゃ》に乗りて、監獄の門を出づれば、署の門前より、江戸堀《えどぼり》公判廷に至るの間はあたかも人をもて塀《へい》を築きたらんが如く、その雑沓《ざっとう》名状《めいじょう》すべくもあらず。聞く大阪市民は由来《ゆらい》政治の何物たるを解せざりしに、この事件ありてより、漸《ようや》く政治思想を開発するに至れりとか、また以て妾《しょう》らの公判が如何《いか》に市民の耳目《じもく》を動かしたるかを知るに足るべし。
二 公廷の椿事《ちんじ》
明治十八年十二月頃には、嫌疑者それよりそれと増し加わりて、総数二百名との事なりしが、多くは予審の笊《ざる》の目に漉《こ》し去られて、公判開廷の当時残る被告は六十三名となりたり。されどなお近来|未曾有《みぞう》の大獄《たいごく》にて、一度に総数を入るる法廷なければ、仮に六十三名を九組《ここのくみ》に分ちて各組に三名ずつの弁護士を附し、さていよいよ廷は開かれぬ。先ず公訴状朗読の事ありしに、「これより先、磯山清兵衛《いそやませいべえ》は(中略)重井《おもい》、葉石《はいし》らの冷淡なる、共に事をなすに足る者に非《あら》ず」云々《うんねん》の所に至るや第三列に控えたる被告人|氏家直国《うじいえなおくに》氏は、憤然として怒気満面に潮《ちょう》し、肩を聳《そび》やかして、挙動穏やかならずと見えしが、果して十五ページ上段七行目の「右議決の旨《むね》を長崎滞在の先発者|田代季吉《たしろすえきち》云々」の処に至り、突然第一列にある、磯山清兵衛氏に飛びかかり、一喝《いっかつ》して首筋を掴《つか》みたる様子にて、場《じょう》の内外|一方《ひとかた》ならず騒擾《そうじょう》し、表門警護の看守巡査は、いずれも抜剣《ばっけん》にて非常を戒《いまし》めしほどなりき。とかくする内|看守《かんしゅ》、押丁《おうてい》ら打ち寄りて、漸く氏家を磯山より引き離したり。この時氏家は何か申し立てんとせしも、裁判長は看守押丁らに命じて、氏家を退廷せしめ、裁判長もまたこの事柄につき、相談すべき事ありとて一先《ひとま》ず廷を閉じ、午後に至りて更に開廷せり。爾来《じらい》公判は引き続きて開かれしかど、最初の日の如く六十三名打ち揃《そろ》いたる事はなく、大抵一組とこれに添いたる看守とのみ出廷したり。しかもなお傍聴者は毎日午前三時頃より正門に詰めかけ、三、四日も通い来りて漸く傍聴席に入る事を得たる有様にて、われわれの通路は常に人の山を築けるなりき。
三 重井の情書
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