よき一婦人
ここにおかしきは妾と室を共にせる眉目|麗《うるわ》しき一婦人《いっぷじん》あり、天性|賤《いや》しからずして、頻《しき》りに読書習字の教えを求むるままに、妾もその志に愛《め》でて何角《なにかと》教え導きけるに、彼はいよいよ妾を敬《うやま》い、妾はまた彼を愛して、果《はて》は互いに思い思われ、妾の入浴するごとに彼は来りて垢《あか》を流しくれ、また夜に入《い》れば床《とこ》を同じうして寒天《さむぞら》に凍《こお》るばかりの蒲団《ふとん》をば体温にて暖め、なお妾と互い違いに臥《ふ》して妾の両足《りょうそく》をば自分の両|腋下《えきか》に夾《はさ》み、如何《いか》なる寒気《かんき》もこの隙《すき》に入ることなからしめたる、その真心の有りがたさ。この婦人は大阪の生れにて先祖は相当に暮したる人なりしが、親の代《よ》に至りて家道《かどう》俄《にわか》に衰《おとろ》え、婦人は当地の慣習とて、ある紳士の外妾となりしに、その紳士は太く短こう世を渡らんと心掛くる強盗の兇漢《きょうかん》なりしかば、その外妾となれるこの婦人も定めてこの情を知りつらんとの嫌疑を受けつ、既に一年有余の永《なが》き日をば徒《いたずら》に未決監に送り来れる者なりとよ。この事情を聞きて、妾は同情の念とどめがたく、典獄の巡回あるごとに、その状を具陳して、婦人のために寃枉《えんおう》を訴えけるに、その効《しるし》なりしや否《いな》やは知らねど、妾が三重県に移りける後《のち》、婦人は果して無罪の宣告を受けたりとの吉報《きっぽう》を耳にしき。しかるにかくこの婦人と相親しめりし事の、意外にも奇怪|千万《せんばん》なる寃罪《えんざい》の因となりて、一時妾と彼女と引き離されし滑稽談《こっけいだん》あり、当時の監獄の真相を審《つまび》らかにするの一例ともなるべければ、今その大概を記して、大方《たいほう》の参考に供せん。
五 不思議の濡衣《ぬれぎぬ》
妾《しょう》が彼女を愛し、彼女が妾を敬慕《けいぼ》せるは上《かみ》に述べたるが如き事情なり。世には淫猥《いんわい》無頼《ぶらい》の婦人多かるに、独《ひと》り彼女の境遇のいと悲惨なるを憐《あわ》れむの余り、妾の同情も自然彼女に集中して、宛然《さながら》親の子に対するが如き有様なりしかど、あたかも同じ年頃の、親子といいがたきは勿論《もちろん》、また兄弟姉妹の間柄とも異なりて、他所目《よそめ》には如何《いか》に見えけん、当時妾はひたすらに虚栄心功名心にあくがれつつ、「ジャンダーク」を理想の人とし露西亜《ロシア》の虚無党をば無二《むに》の味方と心得たる頃なれば、両人《ふたり》の交情《あいだ》の如何に他所目《よそめ》には見ゆるとも、妾の与《あずか》り知らざる所、将《は》た、知らんとも思わざりし所なりき。妾はただ彼女の親切に感じ自分も出来得る限り彼に教えて彼の親切に報《むく》いんことを勉《つと》めけるに、ある日看守来りて、突然彼女に向かい所持品を持ち監外に出《い》でよという。さては無罪の宣告ありて、今日こそ放免せらるるならめ、何にもせよ嬉しきことよと、喜ぶにつけて別れの悲しく、互いに暗涙《あんるい》に咽《むせ》びけるに、さはなくて彼女は妾らの室を隔《へだ》つる、二間《けん》ばかりの室に移されしなりき。彼女の驚きは妾と同じく余りの事に涙も出でず、当局者の無法もほどこそあれと、腹立たしきよりは先ず呆《あき》れられて、更に何故《なにゆえ》とも解《と》きかねたる折から、他《た》の看守来りて妾に向かい、「景山《かげやま》さん今夜からさぞ淋《さび》しかろう」と冷笑《あざわら》う。妾は何の意味とも知らず、今夜どころか、只今《ただいま》より淋しくて悲しくて心細さの遣《や》る瀬《せ》なき旨《むね》を答え、何故なればかく無情の処置をなし改化|遷善《せんぜん》の道を遮《さえぎ》り給うぞ、監獄署の処置余りといえば奇怪なるに、署長の巡回あらん時、徐《おもむ》ろに質問すべき事こそあれと、予《あらかじ》めその願意を通じ置きしに、看守は莞然《にこにこ》笑いながら、細君《さいくん》を離したら、困るであろう悲しいだろうと、またしても揶揄《からか》うなりき。その語気《ごき》の人もなげなるが口惜しくて、われにもあらず怫然《ふつぜん》として憤《いきどお》りしが、なお彼らが想像せる寃罪《えんざい》には心付くべくもあらずして、実に監獄は罪人を改心せしむるとよりは、罪人を一層悪に導く処なりと罵《ののし》りしに、彼は僅《わず》かに苦笑して、とかくは自分の胸に問うべしと答えぬ。妾は益※[#二の字点、1−2−22]|気昂《けあが》りて自分の胸に問えとは、妾に何か失策のありしにや、罪あらば聞かまほし、親しみ深き彼女を遠ざけられし理由聞かまほし、と迫りけれども、平生《へいぜい》悪人をのみ取り扱
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