宿屋よりも獄中の夢安く、翌朝|目覚《めざ》めしは他の監房にて既に食事の済《す》みし頃なりき。

 二 同志の顔

 先にここに入りし際は、穴のように思いしに、夜明けて見れば天井《てんじょう》高く、なかなか首をつるべきかかりもなし。窓はほんの光線取《あかりと》りにして、鉄の棒を廻《めぐ》らし如何《いか》なる剛力《ごうりき》の者来ればとて、破牢《はろう》など思いも寄らぬ体《てい》、いと堅牢なり。水を乞うて、手水《ちょうず》をつかえば、やがて小《ち》さき窓より朝の物を差し入れられぬ。到底|喉《のんど》を下《くだ》るまじと思いしに、案外にも味《あじ》わい旨《よ》くて瞬間に喫《た》べ尽しつ、われながら胆太《きもふと》きに呆《あき》れたり。食事終りて牢内を歩むに、ふと厚き板の間の隙《すき》より、床下《ゆかした》の見ゆるに心付き、試みに眸《ひとみ》を凝《こ》らせば、アア其処《そこ》に我が同志の赤毛布《あかげっと》を纏《まと》いつつ、同じく散歩するが見えたり。妾と相隣りて入牢せるは、内藤六四郎《ないとうろくしろう》氏の声なり。稲垣、古井はいずれの獄に拘留せられしにやあらん。地獄の裡《うち》に堕《お》ちながら、慣るるにつれて、身の苦艱《くげん》の薄らぐままに、ひたすら想い出でらるるは、故郷の父母さては東京、大阪の有志が上なり、一念ここに及ぶごとに熱涙の迸《ほとばし》るを覚ゆるなりき。
 翌朝食事終りて後《のち》、訊問所に引き出《いだ》されて、住所、職業、身分、年齢、出生《しゅっしょう》の地の事ども訊問せられ、遂《つい》にこの度《たび》当地に来りし理由を質《ただ》されて、ただ漫遊なりと答えけるに、かく汝《なんじ》らを拘引《こういん》するは、確乎《かっこ》たる見込《みこみ》ありての事なり、未練らしう包み隠さずして、有休《ありてい》に申し立ててこそ汝らが平生《へいぜい》の振舞にも似合わしけれとありければ、尤《もっと》もの事と思い、終《つい》に述懐書にあるが如き意見にて大事に与《くみ》せる事を申し立てぬ。

 三 大阪護送

 警察署にての訊問《じんもん》果てし後《のち》、大阪に護送せらるることとなり、夜《よ》の八、九時頃にやありけん、珠数繋《ずずつな》ぎにて警察の門を出でたり。迅《はや》きようにても女の足の後《おく》れがちにて、途中は左右の腰縄《こしなわ》に引き摺《ず》られつつ、辛《かろ》うじて波止場《はとば》に到り、それより船に移し入れらる。巡査の護衛せるを見て、乗客は胆《きも》をつぶしたらんが如く、眼《まなこ》を円《つぶ》らにして、殊《こと》に女の身の妾《しょう》を視《み》る。良心に恥ずる所なしとはいいながら、何とやら、面伏《おもぶ》せにて同志とすら言葉を交《かわ》すべき勇気も失《う》せ、穴へも入りたかりし一昼夜を過ぎて、漸《ようや》く神戸に着く。例の如く諸所の旅舎より番頭小僧ども乗り込み来りて、「ヘイ蓬莱屋《ほうらいや》で御座《ござ》い、ヘイ西村で御座い」と呼びつつ、手に手に屋号の提燈《ちょうちん》をひらめかし、われらに向かいて頻《しき》りに宿泊を勧めたるが、ふと巡査の護衛するを見、また腰縄のつけるに一驚《いっきょう》を喫《きっ》して、あきれ顔に口を噤《つぐ》めるも可笑《おか》しく、かつは世の人の心の様《さま》も見え透《す》きて、言うばかりなく浅まし。
 その夜は大阪府警察署の拘留場《こうりゅうば》に入りたるに、船中の疲労やら、心痛やらにて心地悪《ここちあ》しく、最《い》とど苦悶を感じおりしに、妾を護衛せる巡査は両人にて、一人は五十未満、他は二十五、六歳ばかりなるが、いと気の毒がり、女なればとて特《こと》に拘留所を設け、其処《そこ》に入れて懇《ねんご》ろに介抱《かいほう》しくれたり。当所に来りてよりは、長崎なる拘留所の、いと凄《すさ》まじかりしに引き換え、総《すべ》てわが家の座敷牢などに入れられしほどの待遇にて、この両人の内、代る代る護衛しながら常に妾と雑話をなし、また食事の折々は暖かき料理をこしらえては妾に侑《すす》める抔《など》、万《よろず》に親切なりけるが、約二週間を経て中の島監獄へ送られし後《のち》も国事犯者を以て遇せられ、その待遇長崎の厳酷《げんこく》なりし比に非ず。長崎警察署の不仁《ふじん》なる、人を視《み》る事|宛然《さながら》犬猫なりしかば、一時は非常に憤慨せしも昔《むかし》徳川幕府が維新の鴻業《こうぎょう》に与《あずか》りて力ある志士を虐待《ぎゃくたい》せし例を思い浮べ、深く思い諦《あきら》めたりしが、今大阪にては、有繋《さすが》に通常罪人を以て遇せず言葉も丁寧《ていねい》に監守長の如きも時々見廻りて、特《こと》に談話をなすを喜び、中には用もなきに話しかけては、ひたすら妾の意を迎えんとせし看守もありけり。

 四 眉目《みめ》
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