きっ》しつつ、午刻《ひる》のほどより丸山に赴《おもむ》ける稲垣の今に至りてなお帰らず、彼は一行の渡航費を持ちて行きたるなれば、その帰るまではわれら一歩《ひとあし》も他《た》に移す能《あた》わず、特《こと》に差し当りて佐賀に至り、江藤新作《えとうしんさく》氏に面したき要件の出来たるに、早く帰宿してくれずやという。その夜十時頃までも稲垣は帰り来らず、もはや詮方《せんかた》なしとて、それぞれ臥床《ふしど》に入りしが、妾は渡韓の期も、既に今明日《こんみょうにち》に迫りたり、いざさらば今回の拳につきて、決心の事情を葉石《はいし》に申し送り、遺憾《いかん》の念なき旨を表し置かんと、独り燈下に細書《さいしょ》を認《したた》め、ようよう十二時頃書き終りて、今や寝《しん》に就かんとするほど、稲垣は帰り来りぬ。

 十一 発覚|拘引《こういん》

 古井は直ちに起きて佐賀へ出立の用意を急ぎ、真夜中宿を立ち出でたり。残るは稲垣と妾とのみ、稲垣は遊び疲れの出でたればにや、横になるより快《こころよ》く睡《ねむ》りけるが、妾は一度《ひとたび》渡韓《とかん》せば、生きて再び故国《ここく》の土を踏むべきに非《あら》ず、彼ら同志にして、果して遊廓に遊ばんほどの余資《よし》あらば、これをば借りて、途《みち》すがら郷里に立ち寄り、切《せ》めては父母|兄弟《けいてい》に余所《よそ》ながらの暇乞《いとまご》いもなすべかりしになど、様々の思いに耽《ふけ》りて、睡るとにはあらぬ現心《うつつごころ》に、何か騒がしき物音を感じぬ。何気《なにげ》なく閉《と》じたる目を見開けば、こはそも如何《いか》に警部巡査ら十数名手に手に警察の提燈《ちょうちん》振り照らしつつ、われらが城壁と恃《たの》める室内に闖入《ちんにゅう》したるなりけり。アナヤと驚き起《た》たんとすれば、宿屋の主人来りて、旅客|検《しらべ》なりという。さてこそ大事去りたれと、覚悟はしたれど、これ妾|一人《いちにん》の身の上ならねば、出来得る限りは言いぬけんと、巡査の問いに答えて、更に何事をも解せざる様《さま》を装い、ただ稲垣と同伴せる旨《むね》をいいしに、警部は首肯《うなず》きて、稲垣には縄《なわ》をかけ、妾をば別に咎《とが》めざるべき模様なりしに、宵《よい》のほど認《したた》め置きし葉石への手書《てがみ》の、寝床の内より現われしこそ口惜しかりしか。警部の温顔《おんがん》俄《にわか》に厳《いか》めしうなりて、この者をも拘引《こういん》せよと犇《ひしめ》くに、巡査は承りてともかくも警察に来るべし、寒くなきよう支度《したく》せよなどなお情けらしう注意するなりき。抗《あらが》うべき術《すべ》もなくて、言わるるままに持ち合せの衣類取り出し、あるほどの者を巻きつくれば、身はごろごろと芋虫《いもむし》の如くになりて、頓《やが》て巡査に伴《ともな》われ行く途上《みち》の歩みの息苦しかりしよ。警察署に着くや否や、先ず国事|探偵《たんてい》より種々の質問を受けしが、その口振りによりて昼のほど公園に遊び帰途|勧工場《かんこうば》に立ち寄りて筆紙墨《ひっしぼく》を買いたりし事まで既に残りのう探り尽されたるを知り、従ってわれらがなお安全と夢みたりしその前々日より大事は早くも破れ居たりしことを覚《さと》りぬ。
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   第四 未決監


 一 ほとんど窒息《ちっそく》

 訊問《じんもん》卒《お》えて後《のち》、拘留所に留置せられしが、その監倉《かんそう》こそは、実に演劇にて見たりし牢屋《ろうや》の体《てい》にて、妾《しょう》の入牢せしはあたかも午前三時頃なりけり。世の物音の沈み果てたる真夜中に、牢の入口なる閂《かんぬき》の取り外《はず》さるる響《ひびき》いとど怪《あや》しう凄《すさ》まじさは、さすがに覚悟せる妾をして身の毛の逆竪《よだ》つまでに怖れしめ、生来《せいらい》心臓の力弱き妾は忽《たちま》ち心悸《しんき》の昂進《こうしん》を支え得ず、鼓動乱れて、今にも窒息《ちっそく》せんず思いなるを、警官は容赦《ようしゃ》なく窃盗《せっとう》同様に待遇《あし》らいつつ、この内に這入《はい》れとばかり妾を真暗闇《まっくらやみ》の室内に突き入れて、また閂《かんぬき》を鎖《さ》し固めたり。何たる無情ぞ、好《よ》しこのままに死なば死ね、争《いか》でかかる無法の制裁に甘んじ得んや。となかなかに涙も出でず、素《もと》より女ながら一死を賭《と》して、暴虐《ぼうぎゃく》なる政府に抗せんと志したる妾《わらわ》、勝てば官軍|敗《ま》くれば賊《ぞく》と昔より相場の極《きま》れるを、虐待の、無情のと、今更の如く愚痴《ぐち》をこぼせしことの恥かしさよと、それよりは心を静め思いを転じて、生《いき》ながら死せる気になり、万感《まんかん》を排除する事に勉《つと》めしかば
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