問う、罪を贖《あがな》い得たる者を救助するの法ありや、再び饑餓《きが》の前に晒《さら》して、むしろ監獄の楽しみを想わしむることなきを保《ほ》し得るや。
九 爆発物の検査
これより先、重井《おもい》らは、東京にての金策|成就《じょうじゅ》し、渡韓の費用を得たるをもて、直ちに稲垣と共に下阪《げはん》してそが準備を調《ととの》え、梅清処塾《ばいせいしょじゅく》にありし壮士は早や三々五々渡韓の途《と》に上《のぼ》りぬ。妾は古井、稲垣両氏と長崎に至る約にてその用意を取り急ぎおりしに、出立の一両日前、重井、葉石、古井の三氏および今回出資せる越中《えっちゅう》富山の米相場師某ら稲垣と共に新町遊廓に豪遊を試み、妾も図《はか》らずその席に招かれぬ。志士《しし》仁人《じんじん》もまたかかる醜態を演じて、しかも交誼《こうぎ》を厚うする方便なりというか、大事の前に小欲を捨つる能《あた》わず、前途近からざるの事業を控えて、嚢底《のうてい》多からざるの資金を濫費《らんぴ》す、妾の不満と心痛とは、妾を引いて早くも失望の淵《ふち》に立たしめんとはしたり。出立の日|重井《おもい》の発言によりて大鯰《おおなまず》の料理を命じ、私《ひそ》かに大官吏を暗殺して内外の福利を進めんことを祝しぬ。かくて午後七時頃神戸行きの船に搭《とう》ぜしは古井、稲垣および妾の三人なりき。瀬戸内の波いと穏やかに馬関《ばかん》に着きしに、当時大阪に流行病あり、漸《ようや》く蔓延《まんえん》の兆《ちょう》ありしかば、ここにも検疫《けんえき》の事行われ、一行の着物は愚《おろ》か荷物も所持の品々も悉《ことごと》く消毒所に送られぬ。消毒の方法は硫黄《いおう》にて燻《くす》べるなりとぞ、さてはと三人顔を見合すべき処なれど、初めより他の注目を恐れてただ乗合の如くに装《よそお》いたれば、他《た》の雑沓《ざっとう》に紛《まぎ》れて咄嗟《とっさ》の間にそれとなく言葉を交え、爆発物は妾の所持品にせんといいたるに、否《いな》拙者《せっしゃ》の所持品となさん、もし発覚せばそれまでなり、潔《いさぎよ》く縛《ばく》に就《つ》かんのみ、構《かま》えて同伴者たることを看破《かんぱ》せらるる勿《なか》れと古井氏はいう。決心動かしがたしと見えたれば妾も否《いな》み兼ねて終《つい》に同氏の手荷物となし、それより港に上《あが》りて、消毒の間|唯《と》ある料理店に登り、三人それぞれに晩餐《ばんさん》を命じけれども、心ここにあらざれば如何《いか》なる美味も喉《のんど》を下《くだ》らず、今や捕吏《ほり》の来らんか、今や爆発の響《ひびき》聞えん乎《か》と、三十分がほどを千日《せんにち》とも待ち詫《わ》びつ、やがて一時間ばかりを経《へ》て宿屋の若僕《わかもの》三人の荷物を肩に帰り来りぬ。再生の思いとはこの時の事なるべし。消毒終りて、衣類も己れの物と着換え、それより長崎行の船に乗りて名に高き玄海灘《げんかいなだ》の波を破り、無事長崎に着きたるは十一月の下旬なり。
十 絶縁の書
ここにて朝鮮行の出船を待つほどに、ある日無名氏より「荷物|濡《ぬ》れた東に帰れ」との電報あり。もし渡韓の際政府の注目|甚《はなは》だしく、大事発露の恐れありと認むる時は、誰よりなりとも「荷物濡れた」の暗号電報を発して、互いに警告すべしとは、かつて磯山らと約しおきたる所なりき。さては磯山の潜伏中大事発覚してかくは警戒し来れるにや、あるいは磯山自ら卑怯《ひきょう》にも逃奔《とうほん》せし恥辱《ちじょく》を糊塗《こと》せんために、かくは姑息《こそく》の籌《はかりごと》を運《めぐ》らして我らの行を妨《さまた》げ、あわよくば縛《ばく》に就かしめんと謀《はか》りしには非《あら》ざる乎《か》と種々評議を凝《こら》せしかど、終《つい》に要領を得ず、東京に打電して重井《おもい》に質《ただ》さんか、出船の期の迫りし今日そもまた真意を知りがたからん、とかくは打ち棄てて顧みず、向かうべき方《かた》に進まんのみと、古井より他《た》の壮士にこの旨《むね》を伝えしに、彼らの中《うち》には古井が磯山に代りしを忌《い》むの風《ふう》ありて議|諧《かな》わず、やや不調和の気味ありければ、かかる人々は潔《いさぎよ》く帰東せしむべし、何ぞ多人数《たにんず》を要せん、われは万人に敵する利器を有せり、敢えて男子に譲らんやと、古井に同意を表して稲垣をば東京に帰らしめ、決死の壮士十数名を率《ひき》いて渡韓する事に決しぬ。これにて妾も心安く、一日長崎の公園に遊びて有名なる丸山など見物し、帰途|勧工場《かんこうば》に入りて筆紙墨《ひっしぼく》を買い調《ととの》え、薄暮《はくぼ》旅宿に帰りけるに、稲垣はあらずして、古井|独《ひと》り何か憂悶《ゆうもん》の体《てい》なりしが、妾の帰れるを見て、共に晩餐を喫《
前へ
次へ
全43ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福田 英子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング