将とのみ思いなせりしに、図《はか》らずも妾の顔の顕《あら》われしを見ては、如何《いか》で慌《あわ》てふためかざらん。されど妾は先日の如き殺風景を繰り返すを好まず、かえって彼に同情を寄せ、ともかくもなだめ賺《すか》して新井、葉石に面会せしむるには如《し》かずとて、種々《いろいろ》と言辞《ことば》を設け、ようよう魔室より誘《さそ》い出して腕車《くるま》に載《の》せ、共に葉石の寓居に向かいしに、途中にて同志の家を尋《たず》ね、その人をも伴《ともな》わんという。詐《いつわ》りとは思いも寄らねば、その心に任せけるに、さても世には卑怯《ひきょう》の男もあるものかな、彼はそのまま奔竄《ほんざん》して、遂《つい》に行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましたり。彼が持ち逃げせる金の内には大功《たいこう》は細瑾《さいきん》を顧みずちょう豪語を楯《たて》となせる神奈川県の志士が、郡役所の徴税を掠《かす》めんとして失敗し、更に財産家に押し入りて大義のためにその良心を欺《あざむ》きつつ、強《し》いて工面《くめん》せる金も混じりしぞや。しかるに彼はこの志士が血の涙の金を私費《しひ》して淫楽《いんらく》に耽《ふけ》り、公道正義を無視《なみ》して、一遊妓の甘心《かんしん》を買う、何たる烏滸《おこ》の白徒《しれもの》ぞ。宜《むべ》なる哉《かな》、縲絏《るいせつ》の辱《はずかし》めを受けて獄中にあるや、同志よりは背徳者として擯斥《ひんせき》せられ、牢獄の役員にも嗤笑《ししょう》せられて、やがて公判開廷の時ある壮士のために傷つけられぬ。因果応報の恐るべきをば、彼もその時思い知りたりしなるべし。

 五 隠《かく》れ家《が》

 かくて磯山は奔竄《ほんざん》しぬ、同志の軍用金は攫《さら》われたり。差し当りて其処此処《そこここ》に宿泊せしめ置きたる壮士の手当てを如何《いか》にせんとの先決問題起り、直ちに東都に打電したる上、石塚氏を使いとしてその状を具陳《ぐちん》せしめ、ひたすらに重井《おもい》の来阪《らいはん》を促《うなが》しけるに、頓《やが》て来りて善後策を整《ととの》え、また帰京して金策に従事したり。その間壮士らの宿料をば、無理算段して埋《う》め合せ、辛《かろ》うじて無銭宿泊の難を免《まぬが》れたれども、さて今後幾日を経《へ》ば調金の見込み立つべきや否や、将《は》た如何《いか》にしてその間を切り抜くべきや。むしろ一家を借り受けて二、三十人の壮士を一団となし置くこそ上策なれとの説も出でしが、かくては警察の目を免れ得じとて、妾《しょう》の発意《ほつい》にて山本憲《やまもとけん》氏に議《はか》り、同氏の塾生として一家を借り受け、これをば梅清処塾《ばいせいしょじゅく》の分室と称しぬ。それより妾は俄《にわか》に世話女房気取りとなり、一人《いちにん》の同志を伴いて、台所道具や種々の家具を求め来り、自炊《じすい》に慣れし壮士をして、代る代る炊事を執《と》らしめ、表面は読書に余念なきが如くに装《よそお》わせつつ、同志|窃《ひそ》かに此処《ここ》に集《つど》いては第二の計画を建て、磯山|逃奔《とうほん》すとも争《いか》で志士の志の屈すべきや、一日も早く渡韓費を調《ととの》えて出立の準備をなすに如《し》かずと、日夜|肝胆《かんたん》を砕《くだ》くこと十数日、血気の壮士らのやや倦厭《けんえん》の状あるを察しければ、ある時は珍しき肴《さかな》を携《たずさ》えて、彼らを訪《と》い、ある時は妾炊事を自らして婦女の天職を味《あじ》わい、あるいは味噌漉《みそこし》を提《さ》げて豆腐《とうふ》屋に通《かよ》い、またある時は米屋の借金のいい訳《わけ》は婦人に限るなど、唆《そその》かされて詫《わ》びに行き、存外|口籠《くちごも》りて赤面したる事もあり。凡《およ》そ大阪にて無一文の時二、三十人の壮士をして無賃宿泊の訴えを免れしめ、梅清処塾《ばいせいしょじゅく》の書生として事なく三週間ばかりを消過せしめしは男子よりはむしろ妾の力|与《あずか》りて功ありしならんと信ず。今日に至るも妾はこの計画の能《よ》くその当を得たるを自覚し、折々語り出でては友人間に誇る事ぞかし。もし妾にして富豪の家に生れ窮苦《きゅうく》の何物たるを知らざらしめば、十九《つづ》や二十歳《はたち》の身の、如何《いか》でかかる細事《さいじ》に心留むべきぞ、幸いにして貧窶《ひんる》の中《うち》に成長《ひととな》り、なお遊学中独立の覚悟を定め居たればこそ、かかる苦策も咄嗟《とっさ》の間《かん》には出でたるなれ。己れ炊事を親《みずか》らするの覚悟なくば彼《か》の豪壮なる壮士の輩《はい》のいかで賤業《せんぎょう》を諾《うべな》わん、私利私欲を棄《す》ててこそ、鬼神《きしん》をも服従せしむべきなりけれ。妾《しょう》をして常にこの心を失わざらしめば、不束《ふつつか
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