や大事に至らんとせしを、安藤氏来りて、直ちに消し止めたり、遉《さす》がは多年薬剤を研究し薬剤師の免状を得て、その当時|薬舗《やくほ》を営み居たる甲斐《かい》ありと人々皆氏を称讃したりき。さりながら今より思い合わすれば、如何《いか》に盲目《めくら》蛇《へび》物に怖《お》じずとはいいながら、かかる危険|極《きわ》まれる薬品を枕にして能《よ》くも安々と睡《ねむ》り得しことよと、身の毛を逆竪《さかだ》つばかりなり。殊《こと》に神戸《こうべ》停車場《ステーション》にて、この鞄《かばん》を秤《はかり》にかけし時の如き、中にてがらがらと音のしたるを駅員らの怪しみて、これは如何《いか》なる品物なりやと問われしに傷持つ足の、ハッと驚きしかど、さあらぬ体《てい》にて、田舎への土産《みやげ》にとて、小供の玩具《おもちゃ》を入れ置きたるに、車の揺れの余りに烈《はげ》しかりしため、かく壊《こわ》されしことの口惜しさよと、わざわざ振り試みるに、駅夫も首肯《うなず》きて、強《し》いては開き見んともせざりき。今にして当時を顧みれば、なお冷汗《ひやあせ》の背を湿《うる》おすを覚ゆるぞかし、安藤氏は代々《よよ》薬屋にて、当時熱心なる自由党員なりしが、今は内務省|検疫官《けんえきかん》として頗《すこぶ》る精励《せいれい》の聞えあるよし。先年|板垣伯《いたがきはく》の内務大臣たりし時、多年国事に奔走《ほんそう》せし功を愛《め》でられてか内務省の高等官となり、爾来《じらい》内閣の幾変遷《いくへんせん》を経《へ》つつも、専門技術の素養ある甲斐《かい》には、他の無能の豪傑《ごうけつ》連とその撰《せん》を異《こと》にし、当局者のために頗《すこぶ》る調法がられおるとなん。

 三 八軒屋

 大阪なる安藤氏の宅に寓居《ぐうきょ》すること数日《すじつ》にして、妾《しょう》は八軒屋という船付《ふなつ》きの宿屋に居《きょ》を移し、ひたすらに渡韓の日を待ちたりしに、一日《あるひ》磯山《いそやま》より葉石《はいし》の来阪《らいはん》を報じ来《きた》り急ぎその旅寓に来れよとの事に、何事かと訝《いぶか》りつつも行きて見れば、同志ら今や酒宴《しゅえん》の半《なか》ばにて、酌《しゃく》に侍《じ》せる妓《ひと》のいと艶《なま》めかしうそうどき立ちたり。かかる会合《まどい》に加わりし事なき身《み》の如何《いか》にしてよからんかとただ恐縮の外《ほか》はなかりき。さるにても、同志は如何様《いかよう》の余裕ありて、かくは豪奢《ごうしゃ》を尽すにかあらん、ここぞ詰問《きつもん》の試みどころと、葉石氏に向かい今日《こんにち》の宴会は妾ほとほとその心を得ず、磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合せなるべしと思い測《ほか》れるには似もやらず、痴呆《たわけ》の振舞、目にするだに汚《けが》らわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、他の血気の壮士らが、遊廓通《ゆうかくがよ》いの外《ほか》に余念なきこそ道理なれ、さりとては歎《なげ》かわしさの極《きわ》みなるかな。かかる席に列《つら》なりては、口利《くちき》くだに慚《は》ずかしきものを、いざさらば帰るべしとて、思うままに言い罵《ののし》り、やおら畳《たたみ》を蹶立《けた》てて帰り去りぬ。こはかかる有様を見せしめなば妾の所感|如何《いかが》あらんとて、磯山が好奇《ものずき》にも特《こと》に妾を呼びしなりしに、妾の怒り思いの外《ほか》なりしかば、同志はいうも更《さら》なり、絃妓《げんぎ》らまでも、衷心《ちゅうしん》大いに愧《は》ずる所あり、一座|白《しら》け渡りて、そこそこ宴を終りしとぞ。

 四 磯山の失踪《しっそう》

 それより数日《すじつ》にして爆発物も出来上りたり、いよいよ出立という前の日、磯山の所在分らずなりぬ。しかるにその甥《おい》なる田崎某《たざきぼう》妾に向かいて、ある遊廓に潜《ひそ》めるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、待合《まちあい》の女将《おかみ》出《い》で来りて、あらずと弁ず。好《よ》し他《た》の人にはさも答えよ、妾は磯山が股肱《ここう》の者なり、この家に磯山のあるを知り、急用ありて来れるものを、磯山にして妾と知らば、必ず匿《かく》れざるべしと重《かさ》ねて述べしに、女将|首肯《うなず》きて、「それは誠にすみまへんが、何誰《どなた》がおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、おかくしもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんは女《おなご》はんじゃ、さかい、おこりはりゃ、しまへんじゃろ」とて、妾を奥の奥のずーッと奥の愛妓《あいぎ》|八重《やえ》と差し向かえる魔室に導《みちび》きぬ。彼は素《もと》より女将《おかみ》に厳命せし事のかくも容易《たや》すく破れんとは知るよしもなく、人のけはいをばただ女
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