「警察」は底本では「驚察」]に告訴して有志の士を傷《きず》つけんとは、何たる怖ろしき人非人《にんぴにん》ぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する而已《のみ》と覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事に与《くみ》せしは全く妾の心得違いなりき、今こそ御諭《おんさとし》によりて悔悟《かいご》したれ、以後は仰《おお》せのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室に閉《と》じ籠《こ》めの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にも優《まさ》りて、御身《おんみ》のさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。漸《ようよ》う妹を賺《すか》して、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、委《くわ》しき有様を書き記《しる》すべき暇《ひま》もなかりき。定めて心変りよと爪弾《つまはじ》きせらるるならんと口惜《くちお》しさ悲しさに胸は張り裂《さ》くる思いにて、夜《よ》もおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りて徐《おもむ》ろに身の振り方を定めんものと今度漸く出奔《しゅっぽん》の期を得たるなり。そは両三日前妹が中元《ちゅうげん》の祝いにと、他《た》より四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを路費《ろひ》として、夜半《やはん》寝巻のままに家を脱《ぬ》け出《い》で、これより耶蘇《ヤソ》教に身を委《ゆだ》ね神に事《つか》えて妾《しょう》が志を貫《つらぬ》かんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約に背《そむ》くの不義を咎《とが》むることなく長く交誼《こうぎ》を許してよという。その情義の篤《あつ》き志を知りては、妾も如何《いか》で感泣《かんきゅう》の涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売り恬《てん》として顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き心地《ここち》ぞや。妾が敬慕《けいぼ》の念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日|女梁山泊《おんなりょうざんぱく》を以て任ずる妾の寓所にて種々《いろいろ》と話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れに臨《のぞ》みてお互いに尽す道は異《こと》なれども、必ず初志を貫《つらぬ》きて早晩自由の新天地に握手せんと言い交《か》わし、またの会合を約してさらばとばかり袂《たもと》を分《わか》ちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知る由《よし》なかりき。
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第三 渡韓の計画
一 妾の任務
ある日同志なる石塚重平《いしづかじゅうへい》氏|来《きた》り、渡韓の準備|整《ととの》いたれば、御身《おんみ》をも具するはずなりとて、その理由およびそれについての方法等を説き明かされぬ。固《もと》より信ずる所に捧《ささ》げたる身の如何《いか》でかは躊躇《ためら》うべき、直ちにその用意に取りかかりけるに、かの友愛の心厚き中田光子《なかだみつこ》は、妾《しょう》の常ならぬ挙動を察してその仔細《しさい》を知りたげなる模様なりき。されど彼女に禍《わざわい》を及ぼさんは本意なしと思いければ、石塚重平氏に托《たく》して彼に勉学を勧《すす》めさせ、また於菟《おと》女史に書を送りて今回の渡航を告げ、後事《こうじ》を托し、これにて思い残す事なしと、心静かに渡韓の途《と》に上《のぼ》りけるは、明治十八年の十月なり。
二 鞄《かばん》の爆発物
同伴者は新井章吾《あらいしょうご》、稲垣示《いながきしめす》の両氏なりしが、壮士連の中には、三々五々|赤毛布《あかげっと》にくるまりつつ船中に寝転ぶ者あるを見たりき。同伴者は皆互いに見知らぬ風《ふう》を装《よそお》えるなり、その退屈さと心配さとはなかなか筆紙に尽しがたし。妾がこの行に加わりしは、爆発物の運搬に際し、婦人の携帯品として、他の注目を避くることに決したるより、乃《すなわ》ち妾《しょう》をして携帯の任に当らしめたるなり。かくて妾は爆発物の原料たる薬品|悉皆《しっかい》を磯山の手より受け取り、支那鞄《しなかばん》に入れて普通の手荷物の如くに装い、始終|傍《かたわ》らに置きて、ある時はこれを枕に、仮寝《うたたね》の夢を貪《むさぼ》りたりしが、やがて大阪に着しければ、安藤久次郎《あんどうきゅうじろう》氏の宅にて同志の人を呼び窃《ひそ》かに包み替えんとするほどに、金硫黄《きんいおう》という薬の少し湿《しめ》りたるを発見せしかば、鑵《かん》より取り出して、暫《しば》し乾《ほ》さんとせしに、空気に触《ふ》るるや否や、一面に青き火となり、今
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