の春なり。両人神奈川県|荻野《おぎの》町に着《ちゃく》し、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局|醵金《きょきん》して重井《おもい》(変名)、葉石《はいし》等志士の運動を助けんと企《くわだ》てしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き若干《じゃっかん》を出金せしめんとて、ただ一人帰郷の途《と》に就きぬ、旅費は両人の衣類を典《てん》して調《ととの》えしなりけり。

 七 髪結洗濯

 女史と相別れし後《のち》、妾《しょう》は土倉《どくら》氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に貴賤《きせん》なし、均《ひと》しく皆神聖なり、身には襤褸《らんる》を纏《まと》うとも心に錦《にしき》の美を飾りつつ、姑《しば》らく自活の道を立て、やがて霹靂《へきれき》一声《いっせい》、世を轟《とどろ》かす事業を遂《と》げて見せばやと、ある時は髪結《かみゆい》となり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広き都《みやこ》に知る人なき心|易《やす》さは、なかなかに自活の業《わざ》の苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じ煩《わずら》いつつ、居《い》て待たんよりは、むしろ行きて見るに若《し》かずと、これを葉石氏に議《はか》りしに、心変りならば行くも詮《せん》なし、さなくばおるも消息のなからんやという。実《げ》にさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかと認《したた》めたる一封の書は来《きた》りぬ。見れば怨《うら》めしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に「アアしくじったり誤りたり取餅桶《とりもちおけ》に陥《おちい》りたり今日《こんにち》はもはや曩日《さき》の富井《とみい》にあらず妹《まい》は一死以て君《きみ》に謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙の能《よ》く尽す処にあらずただただ二階の一隅に推《お》しこめられて日々なす事もなく恋しき東の空を眺《なが》め悲哀に胸を焦《こが》すのみ余は記する能《あた》わず幸いに諒《りょう》せよ」とあり。言《こと》は簡なれども、事情の大方は推《すい》せられつ。さて何とか救済の道もがなと千々《ちぢ》に心を砕《くだ》きけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より慕《した》い来りける門弟のありしを対手《あいて》として日々髪結洗濯の業《わざ》をいそしみ、僅《わず》かに糊口《ここう》を凌《しの》ぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。

 八 暁夢を破る

 しかるにその年の九月初旬|妾《しょう》が一室を借り受けたる家の主人は、朝未明《あさまだき》に二階下より妾を呼びて、景山《かげやま》さん景山さんといと慌《あわ》ただし。暁《あかつき》の夢のいまだ覚《さ》めやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは現《うつつ》の中に問い反《かえ》せしに、女のお客さんがありますという。何《なん》という方ぞと重ねて問えば富井さんと仰有《おっしゃ》いますと答う。なに富井さん! 妾は床《とこ》を蹶《け》りて飛び起きたるなり。階段を奔《はし》り下《お》りるも夢心地《ゆめごこち》なりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて抱《いだ》きつき、暫《しば》しは無言の涙なりき。懐《なつ》かしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱苦《あつくる》しき空を、汗臭《あせくさ》く無下《むげ》に汚《よご》れたる浴衣《ゆかた》を着して、妙齢の処女のさすがに人目|羞《はず》かしげなる風情《ふぜい》にて、茫然《ぼうぜん》と庭に佇《たたず》めるなりけり。さてあるべきに非《あら》ざれば、二階に扶《たす》け上《あ》げて先ず無事を祝し、別れし後《のち》の事ども何くれと尋《たず》ねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御身《おんみ》に別れてより、無事郷里に着き、母上|兄妹《けいまい》の恙《つつが》なきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は最《い》と感じ入りたる体《てい》にて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、遂《つい》に調金の事を申し出でしに、図《はか》らざりき感嘆の体と見えしは妾《しょう》の胆太《きもふと》さを呆《あき》れたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、徐《しず》かに沈みたる底《そこ》気味わるき調子もて、かかる大《だい》それたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未萌《みほう》に防《ふせ》がずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの遣《や》る瀬《せ》なく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑怯《ひきょう》にも警察[#
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