犠牲たらんと欲せしや、他《た》なし、啻《ただ》愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能《あた》わず。空《むな》しく獄裏《ごくり》に呻吟《しんぎん》するの不幸に遭遇し、国の安危を余所《よそ》に見る悲しさを、儂|固《もと》より愛国の丹心《たんしん》万死を軽《かろ》んず、永く牢獄にあるも、敢えて怨《うら》むの意なしといえども、啻《ただ》国恩に報酬《ほうしゅう》する能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転《うた》た潸然《さんぜん》たるのみ。ああいずれの日か儂《のう》が素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
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[#地から5字上げ]明治十八年十二月十九日大阪警察本署において
[#地から2字上げ]大阪府警部補 広沢鉄郎《ひろさわてつろう》 印

 かく冗長《じょうちょう》なる述懐書を獄吏《ごくり》に呈して、廻らぬ筆に仕《し》たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔《はし》る青春の人々は、くれぐれも妾《しょう》に観《み》て、警《いまし》むる所あれかし、と願うもまた端《はし》たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の浪《なみ》に弄《あそ》ばれて、深く深く不遇の淵底《えんてい》に沈み、果ては運命の測《はか》るべからざる恨《うら》みに泣きて、煩悶《はんもん》遂《つい》に死の安慰を得べく覚悟したりしその後《のち》の妾に比して、人格の上の差異|如何《いか》ばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の涙《なんだ》の禁《とど》めがたきを奈何《いかに》せん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲《なげう》たんとしたりしは、一《いつ》は名誉の念に駆《か》られたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時|拙作《せっさく》あり、
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愛国《あいこくの》丹心《たんしん》万死《ばんし》軽《かろし》   剣華《けんか》弾雨《だんう》亦《また》何《なんぞ》驚《おどろかん》
誰《たれか》言《いう》巾幗《きんこく》不成事《ことをなさずと》  曾《かつて》記《きす》神功《じんごう》赫々《かくかくの》名《な》
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 五 不恤緯《ふじゅっい》会社

 これより先|妾《しょう》は坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍《かたわ》ら、何《なに》とかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富井於菟《とみいおと》女史と謀《はか》りて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途《みち》つきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と齟齬《そご》して、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇《あ》えり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。

 六 於菟《おと》女史

 富井於菟女史は播州《ばんしゅう》竜野《たつの》の人、醤油《しょうゆ》屋に生れ、一人《いちにん》の兄と一人《いちにん》の妹とあり。幼《おさなき》より学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の丹精《たんせい》して同所の中学校に入れ、やがて業を卒《お》えて後《のち》、その地の碩儒《せきじゅ》に就きて漢学を修め、また岸田俊子《きしだとしこ》女史の名を聞きて、一度《ひとたび》その家の学婢《がくひ》たりしかど、同女史より漢学の益を受くる能《あた》わざるを知ると共に、女史が中島信行《なかじまのぶゆき》氏と結婚の約成りし際なりしかば、暫時《ざんじ》にしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、絵入《えいり》自由燈《じゆうのともしび》新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に於菟《おと》女史を以て嚆矢《こうし》とすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事に勉《つと》めしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、遂《つい》に姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、万《よろず》秘密を厭《いと》い善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲|益《ますます》急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また如何《いか》で空《むな》しく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断を慨《なげ》き、心|私《ひそ》かに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気を興《おこ》さんとて、坂崎氏には一片《いっぺん》の謝状を遺《のこ》して、妾と共に神奈川地方に奔《はし》りぬ。実に明治十八年
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