されば彼はこれに反して、私《ひそ》かに来らぬこそ好《よ》けれと言い送れり。そは妾にして仮《よ》し彼の家の如き冷酷の家庭に入《い》るとも到底長く留《とど》まる能《あた》わざるを予知すればなりき。妾とてもまた衣裳や金の持参なくして、遥《はる》かに身体《からだ》一つを投ずるは、他の家ならば知らず、この場合においては、徒《いたずら》に彼を悩ますの具となるに過ぎざることを知りければ、始めは固く辞《いな》みて行かざりしに、親族は躍気《やっき》になりて来郷を促し、子供のために、枉《ま》げて来り給えなどいと切《せ》めて勧めけるに、良人《りょうじん》と児《じ》との愛に引かれて、覚束《おぼつか》なくも、舅姑《きゅうこ》の機嫌《きげん》を取り、裁縫やら子供の世話やらに齷齪《あくせく》することとなりたるぞ、思えば変る人の身の上なりける。

 十 ああ死別

 されど妾の如き異分子の、争《いか》でか長くかかる家庭に留まり得べき。特《こと》に舅姑《きゅうこ》の福田に対する挙動の、如何《いか》に冷《ひや》やかにかつ無残《むざん》なるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受くるを覚《さと》りては、針の筵《むしろ》のそれよりも心苦しく、仮《たと》い一旦《いったん》の憤《いきどお》りを招かば招け、かえって互いのためなるべしとて、ある日幼児を背負いて、窃《ひそ》かに帰京せんと謀《はか》りけるに、中途にして親族の人に支えられ、その目的を達する能《あた》わざりしが、彼も妾の意を察して、一家の和合望みなきを覚りしと見え、今回は断然|廃嫡《はいちゃく》の事を親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めんとの事に、妾もこれに賛して、十万の資産何かあらんと、相談の上、妾|先《ま》ず帰京して彼の決行果して成就《じょうじゅ》するや否やを気遣いしに、一カ月を経て親族会議の結果嫡男哲郎を祖父母の膝下《しっか》に留め、彼は出京して夫婦始めて、愁眉《しゅうび》を開き、暖かき家庭を造り得たるを喜びつつ、いでや結婚当時の約束を履行《りこう》せん下心なりしに、悲しい哉《かな》、彼は百事の失敗に撃たれて脳の病《やまい》を惹《ひ》き起し、最後に出京せし頃には病既に膏肓《こうこう》に入りて、ほとんど治《じ》すべからざるに至り、時々《じじ》狂気じみたる挙動さえ著《いちじる》しかりければ、知友にも勧誘を乞いて、鎌倉、平塚《ひらつか》辺に静養せしむべしと、その用意おさおさ怠《おこた》りなかりしに、積年の病|終《つい》に医する能《あた》わず、末子《ばっし》千秋《ちあき》の出生《しゅっしょう》と同時に、人事不省に陥《おちい》りて終に起《た》たず、三十六歳を一期《いちご》として、そのまま永《なが》の別れとなりぬ。
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  第十四 大覚悟


 アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるより甚《はなは》だしきはなかるべし。妾《しょう》も一旦《いったん》は悲痛の余り墨染《すみぞめ》の衣《ころも》をも着けんかと思いしかど、福田実家の冷酷なる、亡夫の存生中より、既にその意の得ざる処置多く、病中の費用を調《ととの》うるを名として、別家《べっけ》の際、分与《ぶんよ》したる田畑をば親族の名に書き換え、即ちこれに売り渡したる体《てい》に持て做《な》して、その実は再び本家《ほんけ》の有《ゆう》となしたるなど、少しも油断なりがたく、彼の死後は殊更《ことさら》遺族の饑餓《きが》をも顧《かえり》みず、一列《いっさい》投げやりの有様なれば、今は子らに対して独《ひと》り重任を負える身の、自ら世を捨て、呑気《のんき》の生涯を送るべきに非《あら》ずと思い返し、亡夫の家を守りて、その日の糊口《ここう》に苦しみ居たるを、友人知己は見るに忍びず、わざわざ実家に舅姑《きゅうこ》を訪《と》いて遺族の手当てを請求しけるに、彼らは少しの同情もなく、漸《ようや》く若干の小遣い銭《せん》を送らんと約しぬ。かかる有様なれば、妾は嬰児《えいじ》を哺育《ほいく》するの外《ほか》、なお二児の教育の忽《ゆるが》せになしがたきさえありて、苦悶《くもん》懊悩《おうのう》の裡《うち》に日を送る中《うち》、神経衰弱にかかりて、臥褥《がじょく》の日多く、医師より心を転ぜよ、しからざれば、健全に復しがたからんなどの注意さえ受くるに至りぬ。死はむしろ幸いならん、ただ子らのなお幼くして、妾《しょう》もしあらずば、如何《いか》になり行くらん。さらば今一度元気を鼓舞して、三児を健全に養育してこそ、妾の責任も全く、良人の愛に酬《むく》ゆるの道も立てと、自ら大いに悔悟《かいご》して、女々《めめ》しかりし心恥かしく、ひたすらに身の健康を祈りて、療養怠りなかりしに、やがて元気も旧に復し、浮世の荒浪に泳ぎ出づるとも、決して溺《おば》れざるべしとの覚悟さえ生じければ、亡夫
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