》侯爵《こうしゃく》もまた勅《ちょく》を帯びて渡韓したりき。故に福田はこれらの人によりてかの国有志の重立《おもだ》ちたる人々に交わりを求むるも難《かた》からず、またかの国法務大臣|徐洪範《じょこうはん》は、かつて米国遊学中の同窓の友なれば重ね重ね便宜ありと勇みすすみて、いよいよ出立《しゅったつ》の日妾に向かい、内地にては常に郷里のために目的を妨《さまた》げられ、万事に失敗して御身《おんみ》にまで非常の心痛をかけたりしが、今回の行《こう》によりて、聊《いささ》かそを償《つぐな》い得べし。御身に病児を托す、願わくは珍重《ちんちょう》にせよかしとて、決然|袂《たもと》を分《わか》ちしに、その後《のち》二週間ばかりにして、またもや彼が頭上に一大災厄の起らんとは、実《げ》にも悲しき運命なるかな。
七 妨害運動
これより先、郷里の両親らは福田が渡韓の事を聞きて彼を郷里に呼び返すことのいよいよ難《かた》きを憂《うれ》い、その極|高利貸《こうりかし》をして、福田が家資分産《かしぶんさん》の訴えを起さしめ、かくして彼の一身《いっしん》を縛《しば》り、また公権をさえ褫奪《ちだつ》して彼をして官途に就《つ》く能《あた》わざらしめ、結局|落魄《らくはく》して郷里に帰るの外《ほか》に途《みち》なからしめんと企てたり。されば彼の仁川《じんせん》港に着するや、右の宣告書は忽《たちま》ち領事館より彼が頭上に投げ出《いだ》されぬ。彼はその両親の慈愛が、かくまで極端なるべしとは、夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほどの苦しき金《かね》をも調達して最愛の妻や病児をも跡《あと》に残して、あかぬ別れを敢《あ》えてしたるなるに、慈愛はなかなか仇《あだ》となりて、他に語るも恥かしと、帰京後男泣きに泣かれし時の悲哀そもいくばくなりしぞ。実に彼は死よりもつらき不面目を担《にな》いつつ、折角《せっかく》新調したりし寒防具その他の手荷物を売り払いて旅費を調《ととの》え、漸《ようや》く帰京の途《と》にはつき得たるなりき。
八 血を吐く思い
横浜に着すると同時に、妾《しょう》にちょっと当地まで来れよとの通信ありければ、病児をば人に托して直ちに旅館に至りしに、彼が顔色《がんしょく》常ならず、身に附くものとては、ただ一着の洋服のみとなりて、いとど帰国の本意《ほい》なき事を語り出でられぬ。妻の手前ながら定めて断腸《だんちょう》の思いなりしならんに、日頃|耐忍《たいにん》強き人なりければ、この上はもはや詮方《せんかた》なし、自分は死せる心算《しんさん》にて郷里に帰り、田夫野人《でんぷやじん》と伍《ご》して一生を終うるの覚悟をなさん。かく志《こころざし》を貫《つらぬ》く能《あた》わずして、再び帰郷するの止《や》むなきに至れるは、卿《おんみ》に対しまた朋友《ほうゆう》に対して面目なき次第なるも、如何《いかん》せん両親の慈愛その度に過ぎ、われをして遂《つい》に膝下《しっか》に仕《つか》えしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじて児《じ》のために犠牲とならん、何とぞこの切《せつ》なる心を察して、姑《しば》らく時機を待ちくれよという。今は妾も否《いな》みがたくて、終《つい》に別居の策を講ぜしに、かの子煩悩《こぼんのう》なる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一子《いっし》を分ちて、家庭の冷《ひや》やかさを忘れしめよとあるに、これ将《は》た辞《いな》みがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛を和《やわら》げんよすがにもと、遂《つい》に哲郎をば彼の手に委《ゆだ》ねつ。その当時の悲痛を思うに、今も坐《そぞ》ろに熱涙《ねつるい》の湧《わ》くを覚ゆるぞかし。
九 新生活
かくて彼は再び鉄面を被《かぶ》り愛児までを伴《ともな》いて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極|帰家《きか》せしを喜び、何《なに》とかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、毫《ごう》も慈母の撫育《ぶいく》に異《こと》なることなく、終日その傍《かたわら》に絆《ほだ》されて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心の体《てい》にて親《みずか》ら愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、妾《しょう》に対してさえ、毎月|若干《じゃっかん》の手当てを送るに至りけるが、夫婦|相思《そうし》の情は日一日に弥《いや》増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男|侠太《きょうた》の誕生《たんじょう》間もなく、親族の者より、妾に来郷《らいきょう》の事を促《うなが》し来りぬ、
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