を楽しむなりき。妾は愛に貴賤《きせん》の別なきを知る、智愚《ちぐ》の分別《ふんべつ》なきを知る。さればその夫にして他に愛を分ち我を恥かしむる行為あらば、我は男子が姦婦《かんぷ》に対するの処置を以てまた姦夫《かんぷ》に臨まんことを望むものなり。東洋の女子|特《こと》に独立自営の力なき婦人に取りて、この主義は余り極端なるが如くなれども、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進せしむべき者、男子は時と場合とによりて、いわゆる都合によりてその愛を四方八方に立ち寄らしむるを得る者といわば、誰かその片手落ちなるに驚かざらんや。人道を重んずる人にして、なおこの不公平なる所置を怪しまず、衆口同音婦人を責むるの惨酷《ざんこく》なる事、古来習慣のしからしむる所といわばいえ、二十世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地なきなり。さりながら、こは独《ひと》り男子の罪のみに非《あら》ず、婦人の卑屈なる依頼心、また最も与《あずか》りて悪風習の因となれるなるべし。彼らは常にその良人に見捨てられては、忽《たちま》ち路頭に迷わんとの鬼胎《おそれ》を懐《いだ》き、何でも噛《かじ》り付きて離れまじとは勉《つと》むるなり。故にその愛は良人に非ずして、我が身にあり、我が身の饑渇《きかつ》を恐るるにあり、浅ましいかな彼らの愛や、男子の狼藉《ろうぜき》に遭《あ》いて、黙従の外《ほか》なきはかえすがえすも口惜しからずや。思うに夫婦は両者相愛の情一致して、ここに始めて成立すべき関係なるが故に、人と人との手にて結び合わせたる形式の結婚は妾《しょう》の首肯《しゅこう》する能《あた》わざる所、されば妾の福田と結婚の約を結ぶや、翌日より衣食の途《みち》なきを知らざるに非ざりしかど、結婚の要求は相愛にありて、衣服に非ざることもまた知れり、衣服の顧《かえり》みるに足らざることもまた知れり、常識なき痴情《ちじょう》に溺《おぼ》れたりという莫《なか》れ、妾が良人の深厚《しんこう》なる愛は、かつて少しも衰えざりし、彼は妾と同棲せるがために数万《すまん》の財を棄つること、あたかも敝履《へいり》の如くなりき。結婚の一条件たりし洋行の事は、夫婦の一日も忘れざる所なりしも、調金の道いまだ成らざるに、妾は尋常《ただ》ならぬ身となり、事皆|志《こころざし》と差《ちが》いて、貧しき内に男子を挙げ、名を哲郎《てつろう》とは命じぬ。
四 神頼み
しかるに生れて二月《ふたつき》とはたたざる内に、小児は毛細気管支炎《もうさいきかんしえん》という難病にかかり、とかくする中、危篤の有様に陥りければ、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚にかえりて、風の日も雨の日も厭《いと》うことなく、住居を離《さ》る十町ばかりの築土八幡宮《つくどはちまんぐう》に参詣《さんけい》して、愛児の病気を救わせ給えと祷《いの》り、平生《へいぜい》嗜《たしな》める食物娯楽をさえに断《た》ちたるに、それがためとにはあらざるべけれど、それよりは漸次《ぜんじ》快方に赴《おもむ》きければ、単《ひとえ》に神の賜物《たまもの》なりとて、夫婦とも感謝の意を表し、その後《のち》久しく参詣を怠らざりき。
五 有形無形
妾|幼《よう》より芝居|寄席《よせ》に至るを好《この》み、また最も浄瑠璃《じょうるり》を嗜《たしな》めり。されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、機《おり》に触れては勧め誘《いざな》いたれど、既に無形の娯楽を得たり、復《ま》た形骸《けいがい》を要せずと辞《いな》みて応ぜず。ただわが家庭を如何《いか》にして安穏《あんおん》に経過せしめんかと心はそれのみに奔《はし》りて、苦悶の中《うち》に日を送りつつも、福田の苦心を思いやりて共に力を協《あわ》せ、僅《わず》かに職を得たりと喜べば、忽《たちま》ち郷里に帰るの事情起る等にて、彼が身心の過労|一方《ひとかた》ならず、彼やこれやの間に、可借《あたら》壮健の身を屈托せしめて、なすこともなく日を送ることの心|許《もと》なさ。
六 渡韓の計画
かくては前途のため善《よ》からじと思案して、ある日|将来《ゆくすえ》の事ども相談し、かついろいろと運動する所ありしに、機《おり》よくも朝鮮政府の法律顧問なる資格にて、かの地へ渡航するの便《びん》を得たるを以て、これ幸いと郷里にも告げず、旅費等は半《なか》ば友人より、その他は非常の手だてにて調《ととの》え、渡韓の準備全く整《ととの》いぬ。当時朝鮮政府に大改革ありて、一時日本に亡命の客《かく》たりし朴泳孝《ぼくえいこう》氏らも大政《たいせい》に参与し、威権|赫々《かくかく》たる時なりければ、日本よりも星亨《ほしとおる》、岡本柳之助《おかもとりゅうのすけ》氏ら、その聘《へい》に応じて朝廷の顧問となり、既にして更に西園寺《さいおんじ
前へ
次へ
全43ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福田 英子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング