見えけるが、その実|福田友作《ふくだともさく》は着のみ着のままの貧書生たりしなり。彼は帰朝以来、今のいわゆるハイカラーなりしかば、有志といえる偽豪傑連《にせごうけつれん》よりは、酒色《しゅしょく》を以て誘《いざな》われ、その高利の借金に対する証人または連借人《れんしゃくにん》たる事を承諾せしめられ、果《はて》は数万《すまん》の借財を負《お》いて両親に譴責《けんせき》せられ、今は家に帰るを厭《いと》いおる時なりき。彼は亜米利加《アメリカ》より法学士の免状を持ち帰りし名誉を顧《かえり》みるの遑《いとま》だになく、貴重の免状も反古《ほご》同様となりて、戸棚の隅に鼠《ねずみ》の巣とはなれるなりき。可哀《かわい》さの余りにか将《は》た憎《にく》さにか、困らせなば帰国するならん、東京にて役人などになって貰《もら》わんとて、学問はさせしに非《あら》ずと、実《げ》に親の身としては、忍びざるほどの恥辱苦悶を子に嘗《な》めさせ、なお帰らねば廃嫡《はいちゃく》せんなど、種々の難題を持ち出せしかど、財産のために我が抱負《ほうふ》理想を枉《ま》ぐべきに非《あら》ずとて、彼は諾《うべな》う気色《けしき》だになければ、さしもの両親も倦《あぐ》み果てて、そがなすままに打ち任せつつ居たるなりき。かくて彼は差し当り独立の計《はかりごと》をなさん者と友人にも謀《はか》りて英語教師となり、自宅にて教鞭《きょうべん》を執《と》りしに、肩書きのある甲斐《かい》には、生徒の数《かず》ようように殖《ふ》えまさり、生計の営みに事を欠かぬに至りけるに、さては彼、東京に永住せんとするにやあらん、棄て置きなば、いよいよ帰国の念を減ぜしむべしとて、国許《くにもと》より父の病気に托して帰国を促《うなが》し来ることいと頻《しき》りなり。已《や》むなく帰省して見れば、両親は交々《こもごも》身の老衰を打ち喞《かこ》ち、家事を監督する気力も失《う》せたれば何とぞ家居《かきょ》して万事を処理しくれよという。素《もと》より情には脆《もろ》き彼なれば、非道なる圧制にこそ反抗もすれ、事《こと》を分けたる親の言葉の前には我慢の角も折れ尽し、そのまま家におらんかとも考えしかど、多額の借財を負える身の、今家に帰らんか、父さては家に累《わずら》いを及ぼさんは眼の前なりと思い返し、財産は弟に譲るも遺憾なし、自分は思う仔細《しさい》あれば、多年の苦学を空《むな》しうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに、両親の機嫌《きげん》見る見る変りて、不孝者よ、恩知らずよと叱責《しっせき》したり。已《や》むなく前言を取り消して、永く膝下《しっか》にあるべき旨《むね》を答えしものから、七年の苦学を無にして田夫野人《でんぷやじん》と共に耒鋤《らいじょ》を執《と》り、貴重の光陰《こういん》を徒費《とひ》せんこと、如何《いか》にしても口惜しく、また妾の将来とても、到底農家に来りて馴《な》れぬ養蚕|機織《はたお》りの業《わざ》を執り得べき身ならねば、一日も早く資金を造りて、各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》長ずる道により、世に立つこそよけれと悟《さと》りければ、再び両親に向かいて、財産は弟に譲り自分は独立の生計を求めんと決心せるよしを述べ、さて少許《しょうきょ》の資本の分与《ぶんよ》を乞いしに、思いも寄らぬ有様にて、家を思わぬ人でなしと罵《ののし》られ、忽《たちま》ち出で行けがしに遇せられければ、大いに覚悟する所あり、遂《つい》に再び流浪《るろう》の客《かく》となりて東京に来り、友人の斡旋《あっせん》によりて万朝報社《よろずちょうほうしゃ》の社員となりぬ。彼が月給を受けたるは、これが始めての終りなりき。
三 夫婦相愛
これより漸《ようや》く米塩《べいえん》の資を得たれども、彼が出京せし当時はほとんど着のみ着のままにて、諸道具は一切|屑屋《くずや》に売り払い、遂《つい》には火鉢の五徳《ごとく》までに手を附けて、僅《わず》かに餓死《がし》を免がるるなど、その境遇の悲惨なるなかなか筆紙《ひっし》の尽し得る所にあらざりしかど、富豪の家に人となりし彼の、別に苦情を訴うることもなく、むしろ清貧に安んじたりし有様は、妾《しょう》をして、坐《そぞ》ろ気の毒の感に堪えざらしめき。妾はこれに引き換えて、素《もと》より貧窶《ひんる》に馴《な》れたる身なり、そのかつて得んと望める相愛の情を得てよりは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めける権門《けんもん》の令夫人よ、御身《おんみ》が偽善的儀式の愛に欺《あざむ》かれて、終生浮ぶ瀬《せ》のなき凌辱《りょうじょく》を蒙《こうむ》りながら、なお儒教的教訓の圧制に余儀なくせられて、窃《ひそ》かに愛の欠乏に泣きつつあるは、妾の境遇に比して、その幸不幸|如何《いか》なりやなど、少なからぬ快感
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