惜《くちお》しく腹立たしき限りなれ。かくわが朝鮮事件に関せし有志者は、出獄後郷里の有志者より数年《すねん》の辛苦を徳とせられ、大抵《たいてい》代議士に撰抜せられて、一時に得意の世となりたるなり。復《ま》た当年の苦艱《くかん》を顧《かえり》みる者なく、そが細君すらも悉《ことごと》く虚名虚位に恋々《れんれん》して、昔年《せきねん》唱えたりし主義も本領も失い果し、一念その身の栄耀《えいよう》に汲々《きゅうきゅう》として借金|賄賂《わいろ》これ本職たるの有様となりたれば、かの時代の志士ほど、世に堕落したる者はなしなど世の人にも謡《うた》わるるなり。さる薄志弱行の人なればこそ、妾《しょう》が重井のために無上の恥辱を蒙《こうむ》りたるをば、なかなかに乗ずべき機なりとなし、厭《いや》になったら、また善《よ》いのを求むべし、これが当世なりとは、さても横に裂《さ》けたる口かな。何たる教訓ぞや。
六 重井と絶《た》つ
見よ彼らが家庭の紊乱《びんらん》せる有様を、数年間《すねんかん》苦節を守りし最愛の妻をして、良人《りょうじん》の出獄、やれ嬉しやと思う間もなく、かえって入獄中の心配よりも一層の苦悶《くもん》を覚えしめ、淫酒《いんしゅ》に耽《ふけ》り公徳を害して、わがままの振舞いやが上に増長すると共に、細君もまた失望の余り、自暴自棄の心となりて、良人と同じく色に溺《おぼ》れ、果《はて》はその子にまで無限の苦痛を嘗《な》めしむるもの比々《ひひ》として皆しかりとかや、アアかかるものを頼めるこそ過《あやま》ちなりけれ。この上は自《みずか》ら重井との関係を断ち翻然《ほんぜん》悔悟《かいご》してこの一身をば愛児のために捧《ささ》ぐべし。妾|不肖《ふしょう》なりといえどもわが子はわが手にて養育せん、誓って一文《いちもん》たりとも彼が保護をば仰がじと発心《ほっしん》し、その旨《むね》言い送りてここに全く彼と絶ち、家計の保護をも謝して全く独立の歩調を執《と》り、さて両親にもこの事情を語りて、その承諾を求めしに、非常に激昂《げっこう》せられて、人を以て厳しく談判せんなど言い罵《ののし》られけるを、かかる不徳不義の者と知らざりしは全く妾の過ちなり、今更|如何《いか》に責《せ》めたりともその効《かい》あらんようなく、かえって恥をひけらかすに止《とど》まるべしと、かつ諌《いさ》めかつ宥《なだ》めけるに、ようように得心《とくしん》し給う。
七 災厄|頻《しき》りに至る
それより妾《しょう》は女子実業学校なる者を設立して、幸いに諸方の賛助を得たれば、家族一同これに従事し、母上は習字科を兄上は読書算術科を父上は会計を嫂《あによめ》は刺繍《ししゅう》科|裁縫《さいほう》科を弟は図画科を弟の妻は英学科をそれぞれに分担し親切に教授しけるに、東京市内は勿論|近郷《きんきょう》よりも続々入学者ありて、一時は満員の姿となり、ありし昔の家風を復して、再び純潔なる生活を送りたりしにさても人の世の憂《う》たてさよ、明治二十五年の冬父上|風邪《ふうじゃ》の心地《ここち》にて仮りの床《とこ》に臥《ふ》し給えるに、心臓の病《やまい》さえ併発して医薬の効なく遂《つい》に遠逝《えんせい》せられ、涙ながらに野辺送《のべおく》りを済ましてよりいまだ四十日を出でざるに、叔母上またもその跡《あと》を追われぬ。この叔母上は妾が妊娠の当時より非常の心配をかけたるにその恩義に報ゆるの間《ひま》もなくて早くも世を去り給えるは、今に遺憾|遣《や》る方《かた》もなし。その翌年四月には大切なる兄上さえ世を捨てられ、僅《わず》かの月日の内に三度まで葬儀を営める事とて、本来|貧窮《ひんきゅう》の家計は、ほとほと詮《せん》術《すべ》もなき悲惨の淵《ふち》に沈みたりしを、有志者諸氏の好意によりて、辛《から》くも持ち支え再び開校の準備は成りけれども、杖柱《つえはしら》とも頼みたる父上兄上には別れ、嫂《あによめ》は子供を残して実家に帰れるなどの事情によりて、容易に授業を始むべくもあらず、一家再び倒産の憐《あわ》れを告げければ、妾は身の不幸不運を悔《くや》むより外《ほか》の涙もなく、この上は海外にも赴《おもむ》きてこの志《こころざし》を貫《つらぬ》かんと思い立ち、徐《おもむ》ろに不在中の家族に対する方法を講じつつありし時よ、天いまだ妾を捨て給わざりけん端《はし》なくも後日《こじつ》妾の敬愛せる福田友作《ふくだともさく》と邂逅《かいこう》の機を与え給えり。
[#改ページ]
第十三 良人
一 同情相憐れむ
これより先、明治二十三年の春、新井章吾《あらいしょうご》氏の宅にて、一度福田と面会せし事はありしが、当時|妾《しょう》は重井との関係ありし頃にて、福田の事は別に記憶にも存せざりしが、彼は妾の身の上を知り、一度《ひ
前へ
次へ
全43ページ中36ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福田 英子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング