護士岡崎某の妻となり、その縁によりて父の弁護を頼みぬ。されば岡崎氏は彼女に取りて忘るべからざる恩人にて、妾が出獄せし際の如きも岡崎氏と相挈《あいたずさ》え、特《こと》に妾を迎えて郷里に同行するなど、妾との間柄もほとんど姉妹の如くなりしに、岡崎氏の家計|不如意《ふにょい》となるに及びて、彼女はこれを厭《いと》い、当時全盛に全盛を極めたる重井の虚名に恋々《れんれん》して、遂《つい》に良人《りょうじん》たり恩人たる岡崎氏を棄て、心強くも東京に奔《はし》りて重井と交際し、果はその愛を偸《ぬす》み得たりしなり。かかる野心のありとも知らず、妾はなお昔の如く相親しみ相睦《あいむつ》み合いしに、ある日重井よりの書翰《しょかん》あり、読みもて行くに更に何事《なにごと》とも解し得ざりしこそ道理なれ、富子は何日《いつ》か懐胎《かいたい》してある病院に入院し子を分娩したるなり。さればその書翰は、入院中の彼女に送るべきものなりしに、重井の軽率にも、妾への書面と取り違《ちが》えたるなりとは、天罰とこそいうべけれ。かくと知りたる妾の胸中は、今ここに記《しる》すまでもなきことなり、直ちに重井と泉に向かってその不徳を詰責《きっせき》せしに、重井は益※[#二の字点、1−2−22]その不徳の本性《ほんしょう》を現わしたりけれど、泉は女だけにさすがに後悔《こうかい》せしにやあらん、その後久しく消息を聞かざりしが、またも例の幻術《げんじゅつ》をもて首尾《しゅび》よく農学博士の令室《れいしつ》となりすまし、いと安らかに、楽しく清き家庭を整《ととの》えおらるるとか。聞くが如きは、重井と彼女との間に生れたる男子は、彼女の実兄泉某の手に育てられしが、その兄発狂して頼みがたくなれるをもて、重井を尋《たず》ねて、身を托せんと思い立ちしに、その妾お柳《りゅう》のために一言《いちごん》にして跳付《はねつ》けられ、已《や》むなく博士某の邸《てい》に生みの母なる富子夫人を尋ぬれば、これまた面会すらも断わられて、爾来《じらい》行く処を知らずとぞ。年齢はなお十三、四歳なるべし。しかも辛苦《しんく》の内に成長したればか、非常にませし容貌なりとの事を耳にしたれば、アア何たる無情ぞ何たる罪悪ぞ、父母共に人に優《すぐ》れし教育を受けながら、己れの虚名心に駆られて、将来有為の男児をば無残々々《むざむざ》浮世の風に晒《さら》し、なお一片|可憐《かれん》なりとの情《こころ》も浮ばず、ようよう尋ね寄りたる子を追い返すとは、何たる邪慳《じゃけん》非道《ひどう》の鬼ぞやと、妾は同情の念|已《や》みがたく、如何《いか》にもしてその所在を知り、及ばずながら、世話して見んと心掛くるものから、いまだその生死をだに知るの道なきこそ遺憾《いかん》なれ。

 五 驚くべき相談|対手《あいて》

 ここにおいて妾《しょう》は全く重井のために弄《もてあそ》ばれ、果《はて》は全く欺《あざむ》かれしを知りて、わが憤怨《ふんえん》の情は何ともあれ、差し当りて両親兄弟への申し訳を如何《いか》にすべきと、ほとほと狂すべき思いなりしをわれを励《はげ》まし、かつて生死をさえ共にせんと誓いたりし同志中、特《こと》に徳義深しと聞えたるある人に面会し、一部始終を語りて、その斡旋《あっせん》を求めけるに、さても人の心の頼めがたさよ、彼|曰《いわ》く既に心変りのしたる者を、如何に説けばとて、責《せ》むればとて、詮《せん》もなからん。むしろ早く思い棄てて更《さら》に良縁を求むるこそ良《よ》けれ、世間|自《おの》ずから有為の男子に乏しからざるを、彼一人のために齷齪《あくせく》する事の愚《おろ》かしさよと、思いも寄らぬ勧告の腹立たしく、さては君も今代議士の栄職を荷《にな》いたれば、最初の志望は棄てて、かつて政敵たりし政府の権門家《けんもんか》に屈従するにこそ、世間|自《おの》ずから栄達の道に乏しからざるを、大義《たいぎ》のために齷齪することの愚かしさよとや悟《さと》り給うらん。アア堂々たる男子も一旦《いったん》志《こころざし》を得れば、その難有味《ありがたみ》の忘れがたくて如何なる屈辱をも甘んぜんとす、さりとては褻《けが》らわしの人の心やと、当面《まのあた》りに言い罵《ののし》り、その醜悪を極めけれども、彼|重井《おもい》の変心を機として妾を誑惑《たぶらか》さんの下心あるが如くなお落ち着き払いて、この熱罵《ねつば》をば微笑もて受け流しつつ、その後《のち》も数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》訪《と》い寄りては、かにかくと甘き辞《ことば》を弄《ろう》し、また家人にも取り入りてそが歓心を得んと勉《つと》めたる心の内、よく見え透《す》きて、憫《あわ》れにもまた可笑《おか》しかりし。否《いな》彼がためにその細君より疑い受けて、そのまま今日に及べるこそ思えば口
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