は》ぐが如くに癒《い》え行きて、はては、床《とこ》の上に起き上られ、妾の月琴《げっきん》と兄上の八雲琴《やくもごと》に和して、健《すこ》やかに今様《いまよう》を歌い出で給う。
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春のなかばに病み臥《ふ》して、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近き老《おい》の身を、うからやからのあつまりて、日々にみとりし甲斐《かい》ありて、病《やまい》はいつか怠りぬ、実《げ》に子宝の尊きは、医薬の効にも優《まさ》るらん、
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滞在一週間ばかりにて、母上の病気全く癒えければ、児を見たき心の矢竹《やたけ》にはやり来て、今は思い止まるべくもあらねば、われにもあらず、能《よ》きほどの口実を設けて帰京の旨《むね》を告げ、かつ妾も思う仔細《しさい》あれば、遠からず父上母上を迎え取り、膝下《しっか》に奉仕《ほうじ》することとなすべきなど語り聞えて東京に帰り、先《ま》ず愛児の健やかなる顔を見て、始めて十数日来の憂《う》さを霽《はら》しぬ。
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第十二 重井の変心
一 再び約束|履行《りこう》を迫る
妾《しょう》の留守中、重井《おもい》は数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》来りて小児を見舞いしよし、いまだ実子とてはなき境涯なれば、今かく健全の男子を得たるを見ては、如何《いか》で楽しくも思わざらん、ただ世間を憚《はばか》ればこそ、その愛情を押し包みつつ、朝夕に見たき心を忍ぶなるべし。いざや今一応約束の決行を促《うなが》さばやと、ある日面会せしを幸いかく何日《いつ》までも世間を欺《あざむ》き小供にまで恥辱を与うるは親として余り冷酷に過ぎたり、早く発表して妾の面目を立て給え。もしこのままにて自然この秘密の発覚することもあらば、妾は生きて再び両親にも見《まみ》えがたかるべしなど、涙と共に掻口説《かきくど》き、その後《のち》また文《ふみ》して訴えけるに、彼も内心穏やかならず頗《すこぶ》る苦慮の体《てい》なりしが、ある時は何思いけん児《じ》を抱《いだ》き上げて、その容貌を熟視しつつハラハラと熱《あつ》き涙を濺《そそ》ぎたりき。されど少しもその意中を語らず、かつその日よりして、児を見に来る事もやや疎《うと》くなり行きて、何事か不満の事情あるように見受けられければ、妾も事の破れんことを恐れ、一日|説《と》くに女学校設立の意を以てし、彼をして五百金を支出せしめたる後、郷里の父母兄弟に柬《かん》して挙家《きょか》上京の事に決せしめぬ。
二 挙家上京
アア妾《しょう》はただ自分の都合によりて、先祖代々師と仰がれし旧家をば一朝その郷関より立ち退《の》かしめ住《すみ》も慣れざる東の空にさまよわしめたるなり。その罪の恐ろしさは、なかなか贖《あがな》うべき術《すべ》のあるべきに非《あら》ず、今もなお亡き父上や兄上に向かいて、心に謝《わ》びぬ日とてはなし。されどその当時にありては、両親の喜び一方《ひとかた》ならず、東京にて日を暮し得るとは何たる果報《かほう》の身の上ぞや、これも全く英子《ひでこ》が朝鮮事件に与《あずか》りたる余光なりとて、進まぬ兄上を因循《いんじゅん》なりと叱りつつ、一家打ち連れて東京に永住することとなりしは明治二十四年の十月なりき。上京の途中は大阪の知人を尋《たず》ね、西京《さいきょう》見物に日を費《ついや》し、神戸よりは船に打ち乗りて、両親および兄弟両夫婦および東京より迎えに行きたる妾と弟の子の乳母《うば》と都合八人いずれも打ち興じつつ、長き海路《うみじ》も恙《つつが》なく無事横浜に着、直ちに汽車にて上京し、神田《かんだ》錦町《にしきちょう》の寓居《ぐうきょ》に入りけるに、一年余りも先に来り居たる叔母は大いに喜び、一同を労《いた》わり慰めて、絶えて久しき物語に余念とてはなかりけり。
三 変心の理由
家族の東京に集まりてより、重井の挙動全く一変し、非常に不満の体《てい》にて訪《と》い来る事も稀々《まれまれ》なりしが、妾はなおそれとは気付かず、ただただ両親兄弟に対し前約を履行《りこう》せざるを恥ずるが故とのみ思い取りしかば、しばしば彼に告ぐるに両親の悪意なきことを以てしけれども、なお言《ことば》を左右に托して来らず、ようよう疎遠の姿となりて、果《はて》はその消息さえ絶えなんとはしたり。こは大いに理由ある事にて、彼は全く変心せしなり、彼は妾《しょう》の帰国中妾の親友たりし泉富子《いずみとみこ》と情を通じ、妾を疎隔《そかく》せんと謀《はか》りしなり。
四 泉富子(変名)
ここに泉富子([#ここから割り注]目下農学博士某の妻なり[#ここで割り注終わり])の来歴を述べんに、彼女は素《もと》備前の産《うま》れなり。父なる人ある府庁に勤務中|看守盗《かんしゅとう》の罪を犯して入獄せしかば、弁
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