ふ》し尾を垂《た》れて、遁《のが》る。」といえる有様の歴々《ありあり》と目前に現われ、しかも妾は禹の位置に立ちて、禹の言葉を口に誦《しょう》し、竜をして遂《つい》に辟易《へきえき》せしめぬ。しかるに分娩《ぶんべん》の際は非常なる難産にして苦悶二昼夜にわたり、医師の手術によらずば、分娩|覚束《おぼつか》なしなど人々立ち騒げる折しも、あたかも陣痛起りて、それと同時に大雨《たいう》篠《しの》を乱しかけ、鳴神《なるかみ》おどろおどろしく、はためき渡りたるその刹那《せつな》に、児《じ》の初声《うぶこえ》は挙《あが》りて、さしも盆《ぼん》を覆《くつがえ》さんばかりの大雨も忽《たちま》ちにして霽《は》れ上《あが》りぬ。後《あと》にて書生の語る所によれば、その日雨の降りしきれる時、世にいう竜《たつ》まきなるものありて、その蛇《へび》の如き細き長き物の天上するを見たりきという。妾は児の重《かさ》ね重《がさ》ね竜に縁あるを奇として、それに因《ちな》める名をば命《つ》けつ、生《お》い先の幸《さち》多かれと祷《いの》れるなりき。
三 児《じ》の入籍
児を分娩すると同時に、またも一《いつ》の苦悶は出で来りぬ。そは重井と公然の夫婦ならねば、児の籍をば如何《いか》にせんとの事なりき。幸いなるかな、妾の妊娠中しばしば診察を頼みし医師は重井と同郷の人にして、日頃重井の名声を敬慕し、彼と交誼《こうぎ》を結ばん事を望み居たれば、この人によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に謀《はか》る所ありしに、義侠《ぎきょう》に富める人なりければ直ちに承諾し、己れいまだ一子《いっし》だになきを幸い、嫡男《ちゃくなん》として役所に届け出でられぬ。かくて両人とも辛《かろ》うじて世の耳目《じもく》を免かれ、死よりもつらしと思える難関を打ち越えて、ヤレ嬉しやと思う間もなく、郷里より母上|危篤《きとく》の電報は来りぬ。
四 愛着
分娩後いまだ三十日とは過ぎざりしほどなりければ、遠路の旅行危険なりと医師は切《せつ》に忠告したり。されど今回の分娩は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言い分けがたく、殊《こと》には母上の病気とあるに、争《いか》で余所《よそ》にやは見過ごすべき、仮《よ》し途中にて死なば死ね、思い止《と》まるべくもあらずとて、人々の諌《いさ》むるを聞かず、叔母《おば》と乳母《うば》とに小児を托して引かるる後ろ髪を切り払い、書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は如何《いか》になしおるやらんと、心は千々《ちぢ》に砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。実《げ》に人生の悲しみは頑是《がんぜ》なき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら強《し》いて堪えねばならぬとは、これも偏《ひとえ》に秘密を契《ちぎ》りし罪悪の罰ならんと、われと心を取り直して、ただ一人心細き旅路に上《のぼ》りけるに、車中|片岡直温《かたおかなおはる》氏が嫂《あによめ》某女と同行せられしに逢い、同女が嬰児《えいじ》を懐《ふところ》に抱きて愛撫《あいぶ》一方《ひとかた》ならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫《ふびん》さ、探りなれたる母の乳房に離れて、俄《にわか》に牛乳を与えらるるさえあるに、哺乳器の哺《ふく》みがたくて、今頃は如何《いか》に泣き悲しみてやあらん、汝《なれ》が恋うる乳房はここにあるものを、そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の雄々《おお》しき心は失《う》せて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも一層《ひとしお》女々《めめ》しうなりしぞかし。さしも気遣《きづか》いたりし身体には障《さわ》りもなくて、神戸直行と聞きたる汽車の、俄に静岡に停車する事となりしかば、その夜は片岡氏の家族と共に、停車場《ステーション》近き旅宿に投じぬ。宿泊帳には故意《わざ》と偽名を書《しょ》したれば、片岡氏も妾をば景山英《かげやまひで》とは気付かざりしならん。
五 一大事
翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞いしに、危篤《きとく》なりし病気の、ようよう怠《おこた》りたりと聞くぞ嬉しき。久し振りの妾が帰郷を聞きて、親戚《しんせき》ども打ち寄りしが、母上よりはかえって妾の顔色の常ならぬに驚きて、何様《なにさま》尋常《じんじょう》にてはあらぬらし、医師を迎えよと口々に勧めくれぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩の事発覚せば、妾はともかく、折角《せっかく》怠りたる母上の病気の、またはそれがために募《つの》り行きて、悔《く》ゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障りなき旨を答え、胸の苦痛を忍び忍びて、ひたすら母上の全快を祈るほどに、追々|薄紙《はくし》を剥《
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