げぬ。初秋《はつあき》のいと爽《さわ》やかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に背《そむ》き、恩愛厚き父母の膝下《しっか》を離れんとする苦しさは、偲《しの》ぶとすれど胸に余りて、外貌《おもて》にや表われけん、帰るさの途上《みちみち》も、母上は妾の挙動を怪《あや》しみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御許《おんゆる》しこそなけれ母は御身《おんみ》を片田舎の埋木《うもれぎ》となすを惜しむ者、如何で折角《せっかく》の志を沮《はば》むべき、安《やす》んじて仔細《しさい》を語れよと、さりとは慈愛深き御仰《おんおお》せかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底|御許容《おんゆるし》なきを知ればなり。かくて先《ま》ず志士《しし》仁人《じんじん》に謀りて学資の輔助《ほじょ》を乞い、しかる上にて遊学の途《と》に上《のぼ》らばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大和《やまと》の豪農|土倉庄三郎《どくらしょうざぶろう》氏に懇願せんとて、先ずその地を志し窃《ひそ》かに出立《しゅったつ》の用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板垣伯《いたがきはく》を始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下阪《げはん》し、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機|逸《いっ》すべからずとて、遂《つい》に母上までも欺《あざむ》き参らせ、親友の招きに応ずと言い繕《つくろ》いて、一週間ばかりの暇《いとま》を乞い、翌日家の軒端《のきば》を立ち出《い》でぬ。実に明治十七年の初秋《はつあき》なりき。

 二 板垣伯に謁《えっ》す

 友人の家に著《つ》くより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど兼《かね》ての決心なり、明くれば友人の懇《ねんご》ろに引き止むるをも聴かず、暇乞《いとまご》いして大阪に向かいぬ。しかるに妾《しょう》と室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、頻《しき》りに妾の生地を尋ねつつ此方《こなた》の顔のみ注視する体《てい》なるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには非《あら》ざる乎《か》と、一旦《いったん》は少なからず危《あや》ぶめるものから、もと妾の郷《きょう》を出づるは不束《ふつつか》ながら日頃の志望を遂《と》げんとてなり、かの墻《かき》を越えて奔《はし》るなどの猥《みだ》りがましき類ならねば、将《は》た何をか包み秘《かく》さんとて、頓《やが》て東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を洩《も》らしけるに、さらばその親戚は誰《た》れ町名番地は如何《いか》になど、執拗《しゅう》ねく問わるることの蒼蝿《うるさ》くて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし乎《か》、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉皇《そうこう》起《た》って事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は妾《しょう》の何人《なんびと》なるかを問い究《きわ》むる暇もなく、その人に牽《ひか》れて来り見れば、何ぞ図《はか》らん従妹《じゅうまい》の妾なりけるに、更に思い寄らぬ体《てい》にて、何故《なにゆえ》の東上にや、両親には許可を得たりやなど、畳《たた》みかけて問い出でぬ。固《もと》より承諾を得たりとは、その場合われと心を欺《あざむ》ける答えなりしが、果ては質問の箭《や》の堪えがたなく、最《い》とど苦しき胸を押さえ額《ひたい》を擦《さす》りて、眩暈《めまい》に托言《ことよ》せ、委《くわ》しくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時|漸《ようよ》う大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を歓《よろこ》び迎え、しかも妾の新来を訝《いぶか》しうも思えるなるべし。その夕《ゆうべ》妾は遂《つい》に藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。妻《さい》は深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽力《じんりょく》せんと誓いぬ。
 その翌日直ちに土倉氏を銀水楼《ぎんすいろう》に訪れけるに、氏はいまだ出阪《しゅっぱん》しおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮様《せんよう》もなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓所《ぐうしょ》に訪れしに、葉石氏は妾《しょう》が出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、懇《ねんご》ろなる教訓を垂《た》れ給いき。されど妾の一念|翻《ひるがえ》すべくもあらずと見てか、強《し》いても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を陳《の》べよとあるに、妾は諾《
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