うべな》いて遂に伯に謁《えっ》し、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御身《おんみ》が東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦家《ほうか》のため、人道のために勉《つと》めよとの御言葉《おんことば》なり。世にも有難《ありがた》くて感涙《かんるい》に咽《むせ》べるその日、図《はか》らざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不肖《ふしょう》ながら学資を供せんとの意味を含みし書翰《しょかん》にてありしかば、天にも昇る心地して従弟《いとこ》にもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉皇《そうこう》土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を陳《の》べ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一向《ひたぶる》に東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に依《よ》りて学資をさえ給《きゅう》せらるるの幸福を無視するは勿体《もったい》なしとて、終《つい》に公然東上の希望を容《い》れたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。
三 書窓(しょそう)の警報
それより数日《すじつ》を経て、板伯《はんはく》よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御身《おんみ》と同伴の事を頼み置きたり、直《す》ぐに来《こ》よ紹介せんとの事に、取り敢《あ》えず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹《さとうていかん》氏にてありければ、妾《しょう》はいよいよ安心して、翌日神戸|出帆《しゅっぱん》の船に同乗し、船の初旅も恙《つつが》なく将《は》た横浜よりの汽車の初旅も障《さわ》りなく東京に着《ちゃく》して、兼《か》ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『自由燈《じゆうのともしび》新聞』記者|坂崎斌《さかざきさかん》氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築地《つきじ》なる新栄《しんさかえ》女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、傍《かたわ》ら坂崎氏に就《つ》きて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一日《あるひ》朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端《はし》なくも妾の書窓《しょそう》を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、外《ほか》に対しては卑屈これ事とし、国家の恥辱《ちじょく》を賭《と》して、偏《ひとえ》に一時の栄華を衒《てら》い、百年の患《うれ》いを遺《のこ》して、ただ一身の苟安《こうあん》を冀《こいねが》うに汲々《きゅうきゅう》たる有様を見ては、いとど感情にのみ奔《はし》るの癖《くせ》ある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂《つい》に巾幗《きんこく》の身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰民《だみん》の眠りを覚《さま》しくれでは已《や》むまじの心となりしこそ端《はし》たなき限りなりしか。
四 当時の所感
ああかくの如くにして妾《しょう》は断然書を擲《なげう》つの不幸を来《きた》せるなりけり。当時妾の感情を洩《も》らせる一片《いっぺん》の文《ぶん》あり、素《もと》より狂者《きょうしゃ》の言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左《さ》に抜萃《ばっすい》することを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕傲《きょうごう》を憂うると共に、また昔時《せきじ》死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭《いと》えり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に抵《いた》るまでも已《や》まざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、頻《しき》りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸《ようや》くかの私欲私利に汲々《きゅうきゅう》たる帝国主義者の云為《うんい》を厭わしめぬ。
ああ学識なくして、徒《いたずら》に感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂世《ゆうせい》愛国の女志士《じょしし》として、人も容《ゆる》されき、妾も許しき。姑《しば》らく女志士として語らしめよ。
[#ここから2字下げ]
獄中《ごくちゅう》述懐《じゅっかい》([#ここから割り注]明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳[#ここで割り注終わり])
元来|儂《のう》は我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習《ろうしゅう》に慣れ、卑々屈々《ひひくつくつ》男子の奴隷《どれい》たるを甘《あま》んじ、天賦《てんぷ》自由の権利あるを知らず己《おの》れがた
前へ
次へ
全43ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福田 英子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング