立たしくて、今もなお忘れがたき記念の一つぞこれなる。
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   第五 既決監


 一 監房清潔

 中の島未決監獄にある事一年有余にして、堀川監獄の既決監に移されぬ。なお未決ながら公判開廷の期の近づきしままに、護送の便宜上|客分《きゃくぶん》としてかくは取り斗《はか》らわれしなりけり。退《の》っ引《ぴ》きならぬ彼女との別離は来りぬ、事件の進行して罪否いずれにか決する時の近づきしをば、切《せ》めてもの心やりにして。堀川にてはある一室の全部を開放して、妾《しょう》を待てり。中の島未決監よりは、監房また更《さら》に清潔にして、部屋というも恥かしからぬほどなり、ここに移れる妾は、ようよう娑婆《しゃば》に近づきたらん心地《ここち》もしつ。此処《ここ》にても親しき友は間もなく妾の前に現われぬ、彼らは若き永年囚なりけり。いずれも妾の歓心を得べく、夜ごとに妾の足を撫《な》でさすり、また肩など揉《も》みて及ぶ限りの親切を尽しぬ。妾は親の膝下《しっか》にありて厳重なる教育を受けし事とて、かかる親しみと愛とを以て遇せらるるごとに、親よりもなお懐《なつ》かしとの念を禁ぜざるなりき。

 二 お政《まさ》

 ここにお政とて大阪監獄きって評判の終身囚ありけり。容姿《ようし》優《すぐ》れて美しく才気あり万事に敏《さと》き性《せい》なりければ、誘工《ゆうこう》の事|総《すべ》てお政ならでは目が開《あ》かぬとまでに称《たた》えられ、永年の誘工者、伝告者として衆囚より敬《うやま》い冊《かしず》かれけるが、彼女もまた妾のここに移りてより、何くれと親しみ寄りつ、読書《とくしょ》に疲れたる頃を見斗《みはから》いては、己《おの》が買い入れたる菓子その他の食物《しょくもつ》を持ち来り、算術を教え給え、算用数字は如何《いか》に書くにやなど、暇《ひま》さえあればその事の外《ほか》に余念もなく、ある時は運動がてら、水撒《みずまき》なども気散《きさん》じなるべしとて、自ら水を荷《にな》い来りて、切《せつ》に運動を勧めしこともありき。彼女は西京《さいきょう》の生れにて、相当の家に成長せしかど、如何《いか》なる因縁《いんねん》にや、女性にして数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》芸者狂いをなし、その望みを達せんとて、数万《すまん》の金を盗みし酬《むく》いは忽《たちま》ちここに憂《う》き年月を送る身と
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