し、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より慕《した》い来りける門弟のありしを対手《あいて》として日々髪結洗濯の業《わざ》をいそしみ、僅《わず》かに糊口《ここう》を凌《しの》ぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。

 八 暁夢を破る

 しかるにその年の九月初旬|妾《しょう》が一室を借り受けたる家の主人は、朝未明《あさまだき》に二階下より妾を呼びて、景山《かげやま》さん景山さんといと慌《あわ》ただし。暁《あかつき》の夢のいまだ覚《さ》めやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは現《うつつ》の中に問い反《かえ》せしに、女のお客さんがありますという。何《なん》という方ぞと重ねて問えば富井さんと仰有《おっしゃ》いますと答う。なに富井さん! 妾は床《とこ》を蹶《け》りて飛び起きたるなり。階段を奔《はし》り下《お》りるも夢心地《ゆめごこち》なりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて抱《いだ》きつき、暫《しば》しは無言の涙なりき。懐《なつ》かしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱苦《あつくる》しき空を、汗臭《あせくさ》く無下《むげ》に汚《よご》れたる浴衣《ゆかた》を着して、妙齢の処女のさすがに人目|羞《はず》かしげなる風情《ふぜい》にて、茫然《ぼうぜん》と庭に佇《たたず》めるなりけり。さてあるべきに非《あら》ざれば、二階に扶《たす》け上《あ》げて先ず無事を祝し、別れし後《のち》の事ども何くれと尋《たず》ねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御身《おんみ》に別れてより、無事郷里に着き、母上|兄妹《けいまい》の恙《つつが》なきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は最《い》と感じ入りたる体《てい》にて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、遂《つい》に調金の事を申し出でしに、図《はか》らざりき感嘆の体と見えしは妾《しょう》の胆太《きもふと》さを呆《あき》れたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、徐《しず》かに沈みたる底《そこ》気味わるき調子もて、かかる大《だい》それたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未萌《みほう》に防《ふせ》がずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの遣《や》る瀬《せ》なく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑怯《ひきょう》にも警察[#
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