の手前ながら定めて断腸《だんちょう》の思いなりしならんに、日頃|耐忍《たいにん》強き人なりければ、この上はもはや詮方《せんかた》なし、自分は死せる心算《しんさん》にて郷里に帰り、田夫野人《でんぷやじん》と伍《ご》して一生を終うるの覚悟をなさん。かく志《こころざし》を貫《つらぬ》く能《あた》わずして、再び帰郷するの止《や》むなきに至れるは、卿《おんみ》に対しまた朋友《ほうゆう》に対して面目なき次第なるも、如何《いかん》せん両親の慈愛その度に過ぎ、われをして遂《つい》に膝下《しっか》に仕《つか》えしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじて児《じ》のために犠牲とならん、何とぞこの切《せつ》なる心を察して、姑《しば》らく時機を待ちくれよという。今は妾も否《いな》みがたくて、終《つい》に別居の策を講ぜしに、かの子煩悩《こぼんのう》なる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一子《いっし》を分ちて、家庭の冷《ひや》やかさを忘れしめよとあるに、これ将《は》た辞《いな》みがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛を和《やわら》げんよすがにもと、遂《つい》に哲郎をば彼の手に委《ゆだ》ねつ。その当時の悲痛を思うに、今も坐《そぞ》ろに熱涙《ねつるい》の湧《わ》くを覚ゆるぞかし。
九 新生活
かくて彼は再び鉄面を被《かぶ》り愛児までを伴《ともな》いて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極|帰家《きか》せしを喜び、何《なに》とかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、毫《ごう》も慈母の撫育《ぶいく》に異《こと》なることなく、終日その傍《かたわら》に絆《ほだ》されて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心の体《てい》にて親《みずか》ら愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、妾《しょう》に対してさえ、毎月|若干《じゃっかん》の手当てを送るに至りけるが、夫婦|相思《そうし》の情は日一日に弥《いや》増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男|侠太《きょうた》の誕生《たんじょう》間もなく、親族の者より、妾に来郷《らいきょう》の事を促《うなが》し来りぬ、
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