されば彼はこれに反して、私《ひそ》かに来らぬこそ好《よ》けれと言い送れり。そは妾にして仮《よ》し彼の家の如き冷酷の家庭に入《い》るとも到底長く留《とど》まる能《あた》わざるを予知すればなりき。妾とてもまた衣裳や金の持参なくして、遥《はる》かに身体《からだ》一つを投ずるは、他の家ならば知らず、この場合においては、徒《いたずら》に彼を悩ますの具となるに過ぎざることを知りければ、始めは固く辞《いな》みて行かざりしに、親族は躍気《やっき》になりて来郷を促し、子供のために、枉《ま》げて来り給えなどいと切《せ》めて勧めけるに、良人《りょうじん》と児《じ》との愛に引かれて、覚束《おぼつか》なくも、舅姑《きゅうこ》の機嫌《きげん》を取り、裁縫やら子供の世話やらに齷齪《あくせく》することとなりたるぞ、思えば変る人の身の上なりける。
十 ああ死別
されど妾の如き異分子の、争《いか》でか長くかかる家庭に留まり得べき。特《こと》に舅姑《きゅうこ》の福田に対する挙動の、如何《いか》に冷《ひや》やかにかつ無残《むざん》なるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受くるを覚《さと》りては、針の筵《むしろ》のそれよりも心苦しく、仮《たと》い一旦《いったん》の憤《いきどお》りを招かば招け、かえって互いのためなるべしとて、ある日幼児を背負いて、窃《ひそ》かに帰京せんと謀《はか》りけるに、中途にして親族の人に支えられ、その目的を達する能《あた》わざりしが、彼も妾の意を察して、一家の和合望みなきを覚りしと見え、今回は断然|廃嫡《はいちゃく》の事を親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めんとの事に、妾もこれに賛して、十万の資産何かあらんと、相談の上、妾|先《ま》ず帰京して彼の決行果して成就《じょうじゅ》するや否やを気遣いしに、一カ月を経て親族会議の結果嫡男哲郎を祖父母の膝下《しっか》に留め、彼は出京して夫婦始めて、愁眉《しゅうび》を開き、暖かき家庭を造り得たるを喜びつつ、いでや結婚当時の約束を履行《りこう》せん下心なりしに、悲しい哉《かな》、彼は百事の失敗に撃たれて脳の病《やまい》を惹《ひ》き起し、最後に出京せし頃には病既に膏肓《こうこう》に入りて、ほとんど治《じ》すべからざるに至り、時々《じじ》狂気じみたる挙動さえ著《いちじる》しかりければ、知友にも勧誘を乞いて、鎌倉、平塚《ひ
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