小児を托して引かるる後ろ髪を切り払い、書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は如何《いか》になしおるやらんと、心は千々《ちぢ》に砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。実《げ》に人生の悲しみは頑是《がんぜ》なき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら強《し》いて堪えねばならぬとは、これも偏《ひとえ》に秘密を契《ちぎ》りし罪悪の罰ならんと、われと心を取り直して、ただ一人心細き旅路に上《のぼ》りけるに、車中|片岡直温《かたおかなおはる》氏が嫂《あによめ》某女と同行せられしに逢い、同女が嬰児《えいじ》を懐《ふところ》に抱きて愛撫《あいぶ》一方《ひとかた》ならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫《ふびん》さ、探りなれたる母の乳房に離れて、俄《にわか》に牛乳を与えらるるさえあるに、哺乳器の哺《ふく》みがたくて、今頃は如何《いか》に泣き悲しみてやあらん、汝《なれ》が恋うる乳房はここにあるものを、そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の雄々《おお》しき心は失《う》せて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも一層《ひとしお》女々《めめ》しうなりしぞかし。さしも気遣《きづか》いたりし身体には障《さわ》りもなくて、神戸直行と聞きたる汽車の、俄に静岡に停車する事となりしかば、その夜は片岡氏の家族と共に、停車場《ステーション》近き旅宿に投じぬ。宿泊帳には故意《わざ》と偽名を書《しょ》したれば、片岡氏も妾をば景山英《かげやまひで》とは気付かざりしならん。

 五 一大事

 翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞いしに、危篤《きとく》なりし病気の、ようよう怠《おこた》りたりと聞くぞ嬉しき。久し振りの妾が帰郷を聞きて、親戚《しんせき》ども打ち寄りしが、母上よりはかえって妾の顔色の常ならぬに驚きて、何様《なにさま》尋常《じんじょう》にてはあらぬらし、医師を迎えよと口々に勧めくれぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩の事発覚せば、妾はともかく、折角《せっかく》怠りたる母上の病気の、またはそれがために募《つの》り行きて、悔《く》ゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障りなき旨を答え、胸の苦痛を忍び忍びて、ひたすら母上の全快を祈るほどに、追々|薄紙《はくし》を剥《
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