もなく辞職して、藤堂《とうどう》氏の老女となりぬ。今なお健在なりや否や。
六 憲法発布と大赦《たいしゃ》
それはさて置き妾《しょう》は苦役一年にして賞標《しょうひょう》四個《しこ》を与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典あらんとせる、ある日の事、小塚義太郎《こづかぎたろう》氏大阪より来りて面会を求めらる。大阪よりと聞きて、かつは喜びかつは動悸《とき》めきながら、看守に伴われて面接所に行き見れば、小塚氏は微笑を以て妾を迎え、久々《ひさびさ》の疎音《そいん》を謝して、さていうよう、自分は今回有志者の依頼を受けて、入獄者一同を見廻りおり、今度の紀元節を以て、憲法を発布あらせらるべき詔勅《しょうちょく》下り、かつ辱《かたじけな》くも入獄者一同に恩典……といいかけしに、看守は遮《さえぎ》りてその筋よりいまだ何らの達《たっし》なし、めったな事を言うべからずと注意したり。小塚氏はなお語を継ぎて、貴女《あなた》は何にも御存知なき様子、しかし早晩御通知あらん、いずれ明日《みょうにち》にも面会に出頭せん、衣類等は如何《いか》になりおるや、早速にも間に合うよう相成りおるや否やなど、種々厚き注意をなして、その日はそのまま引き取りたり。妾は寝耳に水の感にて、何か今明日《こんみょうにち》に喜ばしき御沙汰《ごさた》あるに相違なし、とにかくその用意をなし置かんと、髪を梳《くしけず》り置きしに、果して夕刻書物など持ちて典獄の処に出《い》で来るようにと看守の命あり。さてこそと天にも昇る心地《ここち》にて、控所に伴われ行きしに、典獄署長ら居並《いなら》びて、謹《つつし》んで大赦文《たいしゃぶん》を読み聞かされたり。なお典獄は威儀|厳《おごそ》かに、御身《おんみ》の罪は大赦令によりて全く消除せられたれば、今日より自由の身たるべし。今後は益※[#二の字点、1−2−22]国家のために励《はげ》まれよとの訓言あり。聞くや否や奇怪の感はふと妾の胸に浮び出でぬ。昨日までも今日までも、国賊として使役《しえき》せられたる身の、一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生|幻《まぼろし》の如しとは、そもや誰《た》がいいそめけんと一時《いちじ》はただ茫然《ぼうぜん》たりしが、小塚氏の厚き注意にて、衣類も新調せられたるを着換え、同志六名と共に三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅
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