り候処《そろところ》一葬儀《いちさうぎ》の行列《ぎやうれつ》前方《ぜんほう》より来《きた》り候《そろ》を避《さ》くるに由《よし》なく忽《たちまち》ち之《これ》を河中《かちう》に投棄《なげす》て、買直《かいなほ》しだ/\と引返《ひきかへ》し候《そろ》を小生《せうせい》の目撃致候《もくげきいたしそろ》は、早《はや》十四五|年《ねん》も前の昼の事に候《そろ》。けふ此頃《このごろ》の酉《とり》の市《まち》に参《まゐ》りて、エンギを申候《まうじそろ》ものにこの意義《いぎ》ありや、この愛敬《あいきやう》ありや。年季職人《ねんきしよくにん》の隊《たい》を組みて夜《よ》を喧鬨《けうがう》の為《た》めに蟻集《ぎしう》するに過ぎずとか申せば、多分《たぶん》斯《かく》の如《ごと》き壮快《さうくわい》なる滑稽《こつけい》は復《また》と見る能《あた》はざるべしと小生《せうせい》は存候《ぞんじそろ》(一七日)
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往還《わうくわん》よりすこし引入《ひきい》りたる路《みち》の奥《おく》に似《に》つかぬ幟《のぼり》の樹《た》てられたるを何かと問へば、酉《とり》の市《まち》なりといふ。行《ゆ》きて見るに稲荷《いなり》の祠《ほこら》なり。此地《こゝ》には妓楼《ぎろう》がありますでな、酉《とり》の無いのも異《い》なものぢやといふ事でと、神酒《みき》の番《ばん》するらしきが何《なに》ゆゑかあまたゝび顔撫《かほな》でながら、今日限《こんにちかぎ》り此祠《このほこら》を借《か》りましたぢや。これも六七年前。下総《しもふさ》は市川《いちかは》、中山《なかやま》、船橋辺《ふなばしへん》の郊行《かう/\》の興深《きようふか》からず、秋風《あきかぜ》の嚏《くさめ》となるを覚《おぼ》えたる時の事に候《そろ》。(十七日)
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人目《ひとめ》に附易《つきやす》き天井裏《てんじやうゝら》に掲《かゝ》げたる熊手《くまで》によりて、一|年《ねん》若干《そくばく》の福利《ふくり》を掻《か》き招《まね》き得《う》べしとせば斃《たふ》せ/\の数《かず》ある呪《のろ》ひの今日《こんにち》に於《おい》て、そは余《あま》りに公明《こうめい》に失《しつ》したるものにあらずや
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銀座の大通《おほどう》りに空家《あきや》を見るは、帝都《ていと》の体面《たいめん》に関すと被説候人有之候《とかれそろひとこれありそ
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