ろ》へども、これは今更《いまさら》の事に候《そろ》はず、東京《とうけふ》闢《ひら》けて銀座の大通《おほどほ》りの如《ごと》く、転変《てんぺん》の激《はげし》きは莫《な》しと某老人《ぼうらうじん》の申候《まうしそろ》其訳《そのわけ》は外充内空《ぐわいじうないくう》の商略《せふりやく》にたのみて、成敗《せいはい》の一挙《いつきよ》に決《けつ》せんと欲《ほつ》し候《そろ》人の、其家構《そのいへかま》へに於《おい》て、町構《まちかま》へに於《おい》て、同処《どうしよ》を利《り》と致候《いたしそろ》よりの事《こと》にて、今も店頭《てんとう》に堆《うつたか》きは資産《しさん》に非《あら》ず、負債《ふさい》なるが多きを占《し》むるよしの結果に候《そろ》、
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通抜《とほりぬけ》無用の札を路次口《ろじぐち》へ貼《は》つて置くのは、通抜《とほりぬけ》らるゝ事を表示《へうし》するやうなものだと言つた人があるが僕も先刻《せんこく》余儀《よぎ》なき用事で或抜裏《あるぬけうら》へ一足《ひとあし》這入《はい》るとすぐに妙《めう》なる二つの声を聞いた亭主《ていし》曰《いわ》く、いつまで饒舌《しやべ》つて居《い》やがるのだ、井戸端《ゐどばた》は米を磨《と》ぐ所で、油を売る所ぢやねえぞと。女房《にようぼ》曰《いわ》く、御大層《ごたいそう》な事をお言ひでないうちのお米が井戸端《ゐどばた》へ持つて出られるかえ其儘《そのまゝ》鳴《な》りの鎮《しづま》つたのは、辛辣《しんらつ》な後者の勝《かち》に帰したのだらう(十八日)
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鉄馬創業《てつばそうげふ》の際《さい》、大通《おほどほ》りの営業別《えいげふべつ》を調《しら》べたるに、新橋浅草間《しんばしあさくさかん》に湯屋《ゆや》は一軒《いつけん》なりしと、旧《ふる》けれどこれも其老人《そのらうじん》の話也《はなしなり》。勢《いきほひ》の自然《しぜん》と言つては堅過《かたす》ぎるが、成程《なるほど》江戸時代《えどじだい》から考《かんが》へて見ても、湯屋《ゆや》と与太郎《よたらう》とは横町《よこちやう》の方《ほう》が語呂《ごろ》がいゝ。(十八日)
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駆落《かけお》ちたりと申す語《ご》、今日《こんにち》の国民新聞《こくみんしんぶん》に見え申候《まうしそろ》茶漬《チヤヅ》る的《てき》筆法《ひつぱふ》の脱化《だくわ》とも申すべく候《
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