近年洪水の説明を始めた。東京の洪水をたゞ荒川の氾濫とのみ思ふは大間違で、つまり利根川氾濫の余勢だと云ふ結論であつた。七十の老翁、何せよ、大した元気だ。
『深呼吸と運動で、何十年のリウマチを、到頭退治てしまひました』
 かう言ひながら翁は、その痛んだ方の太い腕を高く上げたり、背中へ廻したりして見せた。僕は好い機会と思つて翁に勧めた。
『岡田虎二郎氏にお逢ひになつては、どうです』
 すると翁は、うるさげに顔をしかめて、
『何分、どうも、忙がしうがして――』
 僕は直ぐ外の話に移つた。それから枕を出して少し休息を勧めた。翁はゴロリと障子口に横になつて、忽ちグウ/\と安らかな大鼾き。僕は団扇で蠅を追ひながら、ツク/″\この巨大な老戦士をながめた。
 やがてポカリと眼を開いた翁は、物影を長く地に引いて、夏の日の傾き行く空を見て、
『や、これは寝過ごした』
と言ひながら、急ぎ起き上がつて、帰り支度にかゝる。
『お泊り下さるんぢや無いんですか』
と、晩餐の支度をして居た妻が、台所から顔を出したが、
『今日中に番町まで行つて置かぬと都合が悪るい』
 かう言ひながら、袴を締めなほし、足袋をはいて、さつさ
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