何でございませう。諸君が日常御心配下ださる事は、これに似寄つたことばかりで、格別珍しいと思召さぬか知りませぬが、私は一昨年以来、この谷中村へ這入り込んで居りまして、この村の一例から観察しますと、決して日本と云ふものは在るもので無い。何が日本であるか。戦争などは何の為めにするか。政府たるものゝ人民に対する仕事が、実に戦争の有様である。」
[#ここで字下げ終わり]
谷中村破滅の時が切迫した。それは政友会内閣が成立して原敬が内務大臣となつたことだ。日露戦争に依て寿命を延ばした桂内閣は、戦争の終局、媾和条約の非難に堪へ切れず、明治三十九年の元朝、媾和全権大使小村寿太郎の帰朝を待ち受けて総辞職に及び、一月七日、政友会総裁西園寺公望が立つて総理大臣となりかくて原敬が内務大臣となつた。これより先き明治三十六年四月足尾鉱山主古河市兵衛が七十二歳で病死、養子潤吉が相続したが、病弱で役に立たない。三十八年、組織を変へて「古河鉱業会社」となし、潤吉を名儀上社長に据ゑると同時に陸奥宗光との関係上、原敬が推されて副社長となつた。而して今や、内閣の更迭を機として、出でて内務大臣となつた。抑も明治廿四年、議会に始
前へ
次へ
全47ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング