る。隣地藤岡町に県庁の「栃木県瀦水池設置処分事務所」の看板が掛かつた。かくして翁は、全く着のみ着のまゝの姿となつて、この鉱毒事件の犠牲者谷中の農村へ一身を投げた。
 世は日露戦争の狂熱で、たゞ外へのみ目を奪はれて居る間隙に乗じ、この谷中村と云ふ一小村は、地獄の如き苦悩に襲はれた。こゝに明治三十九年の四月、翁が寸時も抜き難き足を村から抜いて、新紀元の日曜講演会と云ふ一小集会で、切迫の状態を訴へた演説の一節を、君に一読して貰ふ。
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「世の中では、谷中村買収問題は、四十八万円で人民の所有地を買ふものだと言つて居る。大間違である。四十八万円と云ふ金は幾らか田畑にも渡さうが、この金の性質は、実際人民をして流離顛沛乞食たらしめる運動費である。こんなことが世の中にある。これだけでは御わかりになりますまいから、少しく理由を申上げます。
 一体人民が、何故たつた四十八万円ばかりの金で、村を売るかと申しますと、これには種々な御話がある。一体この村の価と云ふものは、若し金にして言へば、現在七百万円がものはある。この七百万円と云ふ品は、何年の間にこしらへたかと言ひますと、四百年からの物で
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