てから、伯父は幸徳さんへ出掛けたのでせう。私を呼んだのも、用事があつたのではなく、暇乞の為であつたかと思はれます』
と、武子さんは言うた。
 翁が死の用意をして居たことは、種々行動の上から推測される。前年即ち明治三十三年の春、兇徒嘯集被告事件の勃発した時、郷里の妻へ送つた手紙の如きも、能くそれを語つて居る。
[#ここから1字下げ]
「一、其方殿事、明治二十四年父庄造死去の節、正造何の用意も無之候処、其方殿、多年間予ねて御丹誠を以て、老父臨時の用意、身分相応に御心掛置き被下候より、葬儀の準備差支もなく相済候段、正造に代り子たる者の役相立、偏に御蔭と忝次第に候。爾来正造何の功能もなく、留守中家事は元より祖先の供養等までも、多年間御一任被下候段、今更に御礼申上候。何分此上とも御頼申上置候。草々。
[#ここで字下げ終わり]
   明治三十三年三月廿六日[#地から2字上げ]正造
     かつ子江
[#ここから2字下げ]
二白。兎角失礼も多し、御病後折角御大切に。鉱毒婦人乳汁欠乏之儀、御すくひ被下度候事」
[#ここで字下げ終わり]

   四十日の入獄

 直訴の翌年、明治三十五年の夏、翁は官吏侮辱罪で四十日の軽禁錮に処せられた。これより先、鉱毒地の兇徒嘯集被告事件の公判が前橋地方裁判所に開廷され、愈々検事の論告と云ふ幕になつた時、この立会検事の態度が如何にも傲慢で、その言論が余りに冷酷なので、五十名の被告等は、場所柄を考へ、何れも歯がみをして忍んで居たが、傍聴席の真中に、目を閉ぢて厳粛に耳傾けて居た田中翁が、忽然口を開いて、声を立てゝ、長い大アクビをした。検事は、血相を変へて論告を中止し、直に翁を起訴した。翁のアクビは、検事の職務を侮辱する悪意の発動だと云ふのだ。
 このアクビ事件が一審から控訴上告と転々し、愈々確定して、この年六月十六日六十二歳、東京の監獄へ出頭して刑の執行を受けることになつた。世人は、「田中正造のアクビ事件」と、一時の笑話にして忘れてしまつたが、翁の波瀾の一生に取つてこの四十日の監獄生活が、実に重要な一関鍵であつたことは、翁の知人等の間にさへ、恐らく殆ど承認されずに過ぎたであらう。
 この獄中で翁は始めて新約聖書を読んだ。六十年苦難の生涯、常に死地を往来して鍛錬もされ粉砕もされた失敗の経験を以て、基督の短かくして永き勝利の生涯を見た。――基督がどんな風に翁の目に映つたかと想像することは、一つの興味深き問題だ。若し議会に於ける翁の演説を読んだ人は、翁の性格面貌を胸裡に描くことが出来る。僕は今、基督を見た後の田中翁を説くに当り、それを一層深く君に理解して貰ひたい為めに、翁の素性素質に就て、尚ほ少しく話して見たい。
 翁の故郷は下野安蘇郡の小中と云ふ所で、祖父以来の名主の家であつた。翁の自叙伝の中に幼少時代の事が書いてある。
[#ここから1字下げ]
「予が幼時の剛情は、母に心配をかけしこと幾何ぞ。五歳の時、或雨の夜の事なりき。予、奇怪なる人形の顔を描きて、傲顔に下僕に示せしに、彼冷然として『余りお上手ではありません』と笑へり。己れ不埒の奴、然らば汝上手に書き見せよと、筆紙を取りて迫れば、下僕深く己が失礼を謝して、赦されんことを乞ふも、予更に聴《ゆ》るさず、剛情殆ど度に過ぎたり。今まで黙視し居たる母は、此時頻りに予を宥めたれど、予頑として之を用ゐざりしかば、終に戸外に逐出し、戦慄泣き叫ぶ予をして、夜雨に曝さしむること二時間余に及べり。母の刑罰、真底心を刺して、誠に悔悟の念を起さしめぬ。思ふに予をして永く下虐の念を断たしめたるもの、誠に慈母薫陶の賜なり」
「予生来口訥にして且つ記憶力に乏しかりき。赤尾小四郎(白河浪士)予の為に試筆の手本を書す。『日長風暖柳青々』――幾度教へらるゝも、予遂に此の読方を記憶すること能はず。地方の俗として、児童試筆をなす時は、之を親族に献じて賞銭を受く。然れ共予は是を読ましめられんことを恐れ、賞銭を顧みずして窃に之を台所へ投げ込みたり。是れ予が七歳の時なり。去れば予も自ら発憤して独り窃に富士浅間を信仰し、厳冬堅氷を砕き水浴をとりて、記憶力を強からしめたまへと祈れり。五十年後の今日、予が猶ほリウマチスの病に困しむもの、幼時厳冬の水浴に原因せるに非ざるか。」
[#ここで字下げ終わり]
 翁が十九歳の時、父富蔵は割元に進み、翁は父に継で名主となつた。この時代の事が自叙伝に書いてある。
[#ここから1字下げ]
「予は又此頃より大に農業に勉めたり。実に当時の勉強は非常にして、他人に比ぶれば、毎反二斗の余収を得たり。右手には鍬瘤満ち、鎌創満ちて其痕今尚ほ歴然たり。」
「さりながら農の利潤は極めて僅少にして、是は誠に粒々辛苦の汗のみなれば、終に藍玉商とならんと企てたり。父曰く、汝の職苟も名主たり、然るに商となり
前へ 次へ
全12ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング