臨終の田中正造
木下尚江
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)聴《ゆ》るさず
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入して
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\の事情が
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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直訴の日
君よ。
僕が聴いて欲しいのは、直訴後の田中正造翁だ。直訴後の翁を語らうとすれば、直訴当日の記憶が、さながらに目に浮ぶ。
明治三十四年十二月十日。この日、僕が毎日新聞の編輯室に居ると、一人の若い記者が顔色を変へて飛び込んで来た。
『今、田中正造が日比谷で直訴をした』
居合はせた人々から、異口同音に質問が突発した。
『田中はドウした』
『田中は無事だ。多勢の警官に囲まれて、直ぐ警察署へ連れて行かれた』
翁の直訴と聞いて、僕は覚えず言語に尽くせぬ不快を感じた。寧ろ侮辱を感じた。
やがて石川半山君が議会から帰つて来た。開院式に参列したので、燕尾服に絹帽だ。僕は石川と応接室のヴエランダへ出て、直訴に対する感想を語り合つた。通信社からは、間もなく直訴状を報道して来た。引きつゞき、直訴状の筆者が万朝報の記者幸徳秋水であることを報道して来た。直訴状と云ふものを読んで見ると、成程幸徳の文章だ。
『幸徳が書くとは何事だ』
僕は堪へ得ずして遂にかう罵つた。
『まア、然う怒るな』
と言つて、石川は僕の心を撫でるやうに努めて呉れたが、僕は重ね/″\の不愉快に、身を転じて空しく街道を見下して居た。銀座の大道を、その頃は未だ鉄道馬車が走つて居た。
『やア』
と、石川が出しぬけに大きな声を立てたので、僕は思はず振り向いて見ると応接室の入口の小暗い処に幸徳が立つて居る。
『君等に叱られに来た』
かう言うて、幸徳は躊躇して居る。
『叱るどころぢや無い、よく書いてやつた』
石川は燕尾服の腹を突き出して、かう言うた。
『然うかねエ』
と言ひながら、幸徳は始めて応接室を抜けて僕等の間に立つた。でツぷり肥えた石川、細長い僕、細くて短い幸徳、恰も不揃ひの鼎の足のやうに、三人狭いヴエランダに立つた。僕は口を結んだまゝ、たゞ目で挨拶した。
幸徳は徐ろに直訴状執筆の始末を語つた。昨夜々更けて、翁は麻布宮村町の幸徳の門を叩き起した。それから、鉱毒問題に対する最後の道として、一身を棄てゝ直訴に及ぶの苦衷を物語り、これが奏状は余の儀と違ひ、文章の間に粗漏欠礼の事などありてはならぬ故、事情斟酌の上、筆労を煩はす次第を懇談に及んだ。――幸徳の話を聴いて居ると、黒木綿の羽織毛襦子の袴、六十一歳の翁が、深夜灯下に肝胆を語る慇懃の姿が自然に判然と浮んで見える。
『直訴状など誰だつて厭だ。けれど君、多年の苦闘に疲れ果てた、あの老体を見ては、厭だと言うて振り切ることが出来るか』
かう言ひながら幸徳は、斜めに見上げて僕を睨んだ。翁を返して、幸徳は徹夜して筆を執つた。今朝芝口の旅宿を尋ねると、翁は既に身支度を調へて居り、幸徳の手から奏状を受取ると、黙つてそれを深く懐中し、用意の車に乗つて日比谷へ急がせたと云ふ。
『腕を組んで車に揺られて行く老人の後ろ影を見送つて、僕は無量の感慨に打たれた』
語り終つた幸徳の両眼は涙に光つて居た。僕も石川も、黙つて目を閉ぢた。
直訴に就ては、僕は恰も知らないやうな顔をして過ぎて居たが、十年を経て幸徳も既に世に居なくなつた後、或時、僕は始めて翁に「直訴状」の事を問うて見た。それは、幸徳の筆として世上に流布された直訴状の文章が、大分壊はれて居て、幸徳が頗る気にして居たことを思ひ出したからだ。例へば、鉱毒被害の惨状を説明した幸徳の原文には
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「――魚族弊死し、田園荒廃し、数十万の人民、産を失ひ業に離れ、飢て食なく病で薬なく、老幼は溝壑に転じ、壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は、今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれり」
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如何にも幸徳の筆で、立派な文章だ。ところが世上に流布されて居るものは、
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「魚族弊死し田園荒廃し、数十万の人民の中、産を失へるあり、営養を失へるあり、或は業に離れ、飢て食なく病で薬なきあり――今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり」
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かうなつて居る。
あの当日、毎日新聞社のヴエランダで、三人で語つた時にも、幸徳は通信社の印刷物を手にしながら、『黄茅白葦満目惨憺の荒野となれるあり、では、君、文章にならぬぢやないか』と、如何にもナサケなげ
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